「道」について......一応「書"道"」で食べていることから、小学校に呼ばれてお話をさせていただきました。
オーディエンスは、小学校5年生。
最近の小5は、大人でジェントルで、好奇心にあふれていて......私の時代の小5とは全く別の生き物でした。
盛り上がるところではちゃんと盛り上がり、静かに聞くべきところではきちんと聞き、最後のリレー書道では、全体のバランスの中で自分の一画をどう生かすかを真剣に考えて見事な作品を仕上げていく。
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「道可道 非常道」
老子の言葉は深淵で、「これが道、なんて言えっこないんだからさあ、偉そうにそんな風に言ってる時点でそれ、道じゃないからね」(超訳)という言葉に到達するには、子どもたちの想像力だけが頼りです。
実際、そのとてつもない抽象概念がどのぐらい入っていったかはわかりません。
でもなんとなく、
「書道ってのが身近にあって、それは面白そう」
ということが伝わったなら、「書道の面白さ伝道師」としては十分かなという目標設定でした。
そもそも幸せのハードルは低めに設定するのが私の上機嫌に生きる一番のポイントなのです。しかし、しかし、だ! 彼ら、想像を遥かに超越する形で作品を仕上げてきて、それは具体的に「書の道、いいじゃん!素敵じゃん!」と語ったも同然な、もう圧倒的に期待値以上の成果だったのね。あれを見たら、指導した側は脳内快感汁無限開放状態になりますよ。
中にはもちろんやる気のない子もいたのでしょうが、グループワークにしたためみんなでフォローし合ってくれたのか私には「退屈さ」は見えてこなくて、結局彼ら、賢いんですよ。講師を乗せるのが実にうまい。いやあ、楽しく夢中で喋り倒した45分間でした。
とても幸せな時間をありがとう、小5の皆さん。
http://school.setagaya.ed.jp/muka/
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私が書道を始めたのは小2の時。八歳でした。
母が開塾して、私はその広告塔でした。高校卒業するまで毎週毎週、字を書くことも書道そのものも全然好きではなかったのに、「それが当たり前だったから」やってきました。
毎月の競書で全国上位に名前を乗せることの意味もわからないまま、課題をこなすだけ。
昇段審査の課題は多岐に渡り今思うと本当によい教材に触れていたのに、機会的に課題を手本通りに書くだけ。
あの時、ちゃんと意義とか意味とかを見つけていたら、私はもっと楽しく書と関われたのにという大きな後悔があります。
結局十年「お習字」を書いて、書道具を置いて家を出ました。
私は「書の道には進まない」と決め、同じ「書く」にしても文章の方へと進んで行くわけですけれども......。文字の持つ力より、言葉の持つ力に傾倒して十五年間のライター生活。そこからジョブチェンジしてプロのお母さん時代には子どもの心に寄り添ってきました。学童の放課後支援にも携わり、子どもたちの抱えている気持ちにも想いを馳せて見たり。
そういうのがね、十余年前ぐらいから全部こわいぐらいに統合されていくわけです。
PTAとして関わった第一回の夏休み地域教室で、母を講師として呼び、そのコーディネーターを務めます。二年目もぜひというオファーに体を壊した母の代打で立ちました。これが楽しすぎた。
「楽しすぎた」という話を友人にしたところ、じゃあインターの幼稚園の特別授業で子どもたちの前で書いて見せて。というオファーを受け、日本の伝統文化なので、和服を着てやってみた。これがまた楽しすぎた。
喜んでいただけて放課後定期的に教えるようになる。これがまた毎回、楽しすぎる。
そして、これこそが私の研鑽の場所でした。
どうやって書に親しんでもらえるかを毎回考えるというのが、大きな学びになりました。同時に、私自身の過去辛かった書への取り組みを全部癒やすことになりました。徹底的に訓練されていた技術だけは説得力を持って、書家として立つほどではなくともどこでもどんな文字でも書ける有利な状況を自覚するようにもなりました。
教えるどころか、まるで初めて「書」ともう一度出逢ったようでした。子どもたちに、インターの先生方やお母様方に、いったいどれほど多くのものを与えていただいたか!
ほどなく近所の特別支援の私塾から授業のお声がかかり、ここでもまた「書」を介してたくさんのことを学びました。障碍を抱える生徒と書は親和性が高く、彼らの素直で大胆な作品が饒舌に語る強い想いには震えます。数年を経た今も楽しすぎる時間になっています。
「書」への関わりと、そのお楽しみの言語化がどんどん進んでいく。
自分のメソッドで子供達を指導してみたくなりました。信念が熱い思いになって溢れてきました。想いが行動に変わるのに時間はかかりませんでした。
インターの放課後レッスンを体系化させて、大きな団体にはない、小さな小さな塾で適齢期の子供と一緒に研鑽する時間が持ちたくなったのです。
そして開塾。
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道は、一生続く。
ゴールはない。
「道」を語りながら、またここにも気づきがありました。
長い長い道草を経て、また書の道に戻ってきたんだなあ。道草の最中に見つけたものがこの道の地図だったなんて、ちょっと出来過ぎな話ですけれども。