長年、記事を書いてきました。
いろいろな人に会う。話を聞く。文章にまとめる。
それは私にとって天職だと思えるほど楽しく豊かな時間でした。
でも三十歳で生まれたばかりの子どもを立て続けに失って、私は誰にも会いたくない、話を聞く余裕も背景を調べるゆとりもない、文章など書けない事態に陥り、どうにかなってしまいそうでギリギリただ死んでいないだけの自分自身を、次に生まれてきてくれた娘と一緒に過ごすことで、ようやく生きていく方向に立て直した気がします。
強いと思っていました。自分は誰にも負けないぐらい、強いんだと。
でも全然弱かった。めっちゃ、弱かった。ありえないぐらい、滑稽なまでに弱かったのでした。
自分の弱さと対峙し、その弱さを受け入れることから、新しい人生が始まった気がします。幸せすら、誰かと競って負けないと思っていた自分の浅はかさを笑って葬った後は、子どもの低い視線と、子どものゆっくりな歩調に合わせて、母親として人として底辺から成長していきました。
血気盛んな三十代は、いたずらに人を傷つけたりやたらと傷ついたりもあった気がします。そりゃそうだ、私が選んだ友達ではなく、子どもを軸にした友達との関係を構築するのは、フリーランスで人間関係に深く突っ込まずに生きてきた私の残された課題でしたから。
大人になったら宿題はなくなるものだと思ってた♪と、ユーミンの歌声が脳内に響き渡ります。
幸いなことに、地域の友人たちはそのままコーポラティブハウスを作りたいほど仲良しになり、PTAを通して得た一生の戦友達とは未だ飲み会があり、チームメイトのママたちとは情報交換会と称して頻繁に会い、応援団はそのままサークル活動に移行するほどの濃いつきあいができています。
食わず嫌いって、もったいない。本当に。
どんな出会いもチャンスでした。
人は課題をクリアするたびに「経験値が上がった」という音楽に祝福されるのだと思います。
少しずつ仕事にも復帰しましたが、記者の仕事は出版不況とともに頭打ち、私は四十代で大学に行き直し、今度は学ぶ楽しさに夢中になります。
けれど、経済的な事情と母の病気と自分の適性という三要素は乗り越えられず中退。そんな中、七歳から十余年続けていたけれども中断していた書道を教える機会を複数箇所からいただき、定期的に子どもたちのとんでもない瞳の輝き方に触れて、さらにいくつもの出会いがあって、封印していた書道に強引に引き寄せられていくのです。
長年、迷っていました。私はきれいな字、手本通りの字を書く訓練と知識は持っていても、自身魅力的な字が書けません。師匠になる器ではありません。
でも、子どもたちに魅力的な字を書かせることができた。それは子どもたちの自信につながっていく。書をのびのびと楽しんでいる子どもたちを見ていて、ひょっとしてこの世界一シンプルなアートにはすごい可能性があるのではないかと思い至るのです。
私はエライ師匠になりたいわけではなく、たくさんの可能性の種を蒔く人、あるいは応援団になればいいんだなと立ち位置が決まりました。
五十歳で開塾。先般54歳の誕生日を迎えました。
青々と瑞々しいわけではない私に、できることなどたかが知れています。
しかしだからこそ、教室にはいい風が吹いているのを感じます。こんなゆったりとした時間こそが忙しい子どもたちのゆとりの時間になって、その堆積が心の豊穣につながるといいなと思います。
私を信頼して大事なお子様を預けてくださる保護者の皆様に感謝しつつ、私にできること、すべきことを頑張らなくちゃと思っています。