ツイッターで満足

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ツイッターで呟いた文字の総量は、すでに書籍何冊か分になっていると思う。

楽しいこと、心の動き、疑問、そんなことを「世界に開いている窓」という意識で案外注意深くつぶやけるものだから、いつの間にかブログの長文よりずっと快適な存在になってしまった。ダイレクトメールも機能的で、携帯電話が壊れたままになっている私にはこちらのメール機能が重宝している。投げかけた質問には専門家の返事がすぐに戻ってくる。あるいは知らない人とつながるという面白さもある。

友人だと思っていた人が全く私に絡んでこない、いや多分感心すら持っていなくて私のつぶやきはミュートしているな、片思いだったんだなと思うこともあれば、特に仲良くなかった人と急速に近づく場合もあって、SNSというコミュニケーションツールがなかったら私の友人関係はまた別のものだったのねとパラレルワールドを想像するのも楽しい。

世の中の動きを、私が選別した限られた人だけの発言で知ることがないように、当初は私とは反対意見の有名人などもフォローしたりもしていたのだが、意外に不快だったりすることが多くて、まあいい年だしそれはニュースで読めばいいことかも・・・と、今では限られた知人だけにしている。あまり見たくなかった知人の政治的な発言やRTも、主義主張、信条が違っても友達でいられるわと思えたら本物の友情だ。こんなことを考えられるのも、ツイッターのいいところかもしれない。

140文字に、人間性が出るんだなと思う。

私はめんどくさがりだから隠し事がとても下手だ。それでも、いよいよわが子たちもお年ごろであり、プライバシーは守らなければならない。ううう、日々感じた面白い出来事を文字化しないで飲み込んでしまうのはあまりに惜しい、という二律背反をどうしろというのだとイライラしていた時もあったのだが、ツイッターで見事解消している気がするの。

まあ、私のフォロー先はだれでも見られるわけで、私が何に興味を持っているかなどは一目瞭然、人間関係だって、子どもたちの状況だって容易に想像できちゃう気がするから、プライバシーが云々といったところで笑っちゃうんだが、だからこそフェアに生きていこう! にじみ出る人間性を美しいものにしよう! と背筋が伸びるのもまた事実で。

私が子供の頃には、電話はダイヤル式で、プッシュホンが新鮮だった。携帯電話すらSFだった。和文をプリントしたいなら和文タイプライターを覚えなければならず、英文タイプの利便性を羨ましく思ったりした。自分で留守番電話を買った時には興奮し、手軽に使えるようになったFAXに驚愕し、PCは特別な人だけが使えるツールだと思っていたのにどんどん身近になっていき、今では一人一台のiPhoneを、自分の守護神や妖精のように全員が握りしめている。そんなSFが星新一氏の作品にあった。

あの頃の未来。そう考えると、ワクワクが止まらない。

そういう個人的な興奮は、別に誰の利益にも害毒にもならないが、今なんとなく記録に残しておくと、またここから十年二十年越せに私自身が面白いかもしれないと思った。

2015年、夏の終わり。

私は囲まれている家電の中で最もiPadが好きで、依存傾向すらあるほどで、日々の移ろいを140文字に切り取りながら、毎日未来に触れていることに感謝している。

さ、今日も和服着て、仕事に行こう。