熱中症

  • 投稿日:
  • by

巷では体温を超える気温だったというのに、和服で歩きまわり、汗だくなのにその汗も拭わずに、帰宅後は夢中でメールの返信を書いていた。夢中だから、水をのむことも忘れている。

ぞくぞくっとした。

名文が書けたからではなく、内容に感動したからでもなく、ただ単にすごい悪寒に襲われた。顔から吹き出していた汗が、いつの間にか気にならなくなって、紬だけがびっしょり濡れたままになっていた。

腰骨の奥から、髄液に怪しいクスリを混ぜたんだろうコレみたいな未経験の感覚がせり上がってきた。やばい、明らかにやばい。未知の気持ちよさが、かなりヤバイ。発熱していることは感覚で分かったが、体温計をくわえて39度が出た時には「すごいっ! 自分史上、新記録達成!!」と思ってグリコのポーズを決めてしまったほどだ。

50の声を聞いてから、たいてい、腰が痛い。肩こりもひどい。場合によっては頭痛なんかもある。今は弓道で痛めた左手にずっと湿布をしている状態。左胸の筋肉も痛めている。

それが、なあああああああああんにも、どっこも痛くない。

なんだこれ、ふわふわして体が軽い、このまま浮いちゃうんじゃないの?というほど気持ちがいい。腰に怪しいクスリがたっぷり投与されている感じ。何しろ初体験なので、ゾクゾクしてワクワクして、頭がぼーっとして、無駄なことを考えられないのもいい感じ。

夢中で書いていたトラブル処理のメールも、とりあえず今日はもうやめよう。

39度だったら心神喪失状態、そんな時に動いてもろくな結果は産まない。新しい経験値の知恵熱かも知れないが、まず疑うべきは熱中症。メールに熱中していたから、という意味も込めると、完璧なまでの熱中症だ。

ネットを調べる。

冷やせ、冷やせ、徹底的に冷やせ。

それから水飲め、塩をとれ。休め。

どのサイトもそういう感じだったので、保冷パックと麦茶と姑謹製・梅干しを寝床に持ち込んで、食べて飲んで、冷やす。股に挟むとパンツが微妙な感じだが、一気に脚がだるくなって動けなくなり、水冷なう!というのが実感できる。

あいにくクーラーの調子が良くなくて、今ひとつ冷えない部屋だったが、保冷パック型の氷枕が死ぬほど気持ちいい。食欲はないけど、梅干しがめちゃくちゃ美味しい。麦茶もアイソトニックドリンクも、少しずつ飲む。

頭痛・吐き気があったら救急車だと自覚しつつ、どこも辛くない39度に問題はないのか、ちょっと心配になってきた。まぶたは重い。目を閉じてうとうとすると怖い夢みたいなものを見る。それは不快なので、いっそ起きていることにしようと思ったら、楽しい思い出ばかりが走馬灯のように押し寄せてきた。

それはそれは素敵な友達。いくつものグループ、それぞれ出かけたいろいろな場所が、浮かんでは消えていく。美味しいもの。きれいな風景。楽しかった経験。わくわくした発見。自然に涙が溢れてきて、「あれれ、私は死ぬ前の風景を見ているのかな」との想いがよぎる。このまま死んじゃうなら、それもいいのかもしれないなと思うぐらい、私には宝物がぎっしり詰まっていたことを再認識する。

ありがたいなあ。

こんな偏屈な私をまるごと受け止めてくれる友人がいてくれるって、すごい奇跡みたいなことだ。彼、彼女たちの寛大さに甘えることに慣れていて、私は全然還元できていないことに気づく。

この先、どうやってご恩返しをしよう、もうあまり時間がないかもしれないのに。と思う。

あれれ、なんだそれ。時間がないって、なんだ? そうか、本当にこの気持ちよさってばまずいんじゃないの? と思って測ったら、さらに記録を更新。

ああ、声が聞きたいなあ。と思いながら、お友達にラインで話しかけてみた。ラインの吹き出しって不思議で、私には全部その当人の声で脳内再生されるので、幸せな気持ちはさらに増していく。

小僧が帰宅して、慌ててアイスパックを持ってきてくれる。氷水を運んでくれる。

「アイスパックは直接、脇の下に抱えろ」とタオルを何枚も持ってきて、首の横と脇に、的確に置いていく。ああ、私の指導はちゃんと生きているなあ。よかったなあ。自分でご飯も温めて食べられるようになった。もう、大丈夫だなあ。

そしてお嬢にもラインを送ったら、がんばれー!とばかりに、たくさんの楽しげな写真が送られてきて、それを見ながらものすごい安心感と幸福感に包まれて、ぷつん、と寝てしまった。

朝、いつものアラームで起きた。

死んでいなかった。熱も下がっていた。

そもそも39度程度の発熱で、持病もなければ、人は簡単には死なないわ。このオーバーな語り口、私が信用されない所以だよね。でもさ、でも本当に、なんだか、知ってはいけない感覚に近いものだった気はしていて、そして、ありがたいことに私の寛大にして寛容な、多分にスマートな友達は、iPadでしっかりつながっているのだ。

死ぬことは、案外怖くないのかもしれないな。

いや、科学技術が進めば、iPadの中に私自身が生き続けられるかもしれない気さえする。

そうしたら怖がることなんか全然なくなっちゃうわ。ただ、形あるものは儚いからこそ価値なのかもしれない。あのヤバイ恍惚感も、きっとそう度々は訪れなくて、多分次回は本当に死ぬときなのかもしれない。