謝恩会の準備

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PTAでびっくりしたのは、何しろとんでもなく仕事ができるハイスペックな人材が、とんでもない量いる宝庫である。ということ!

みんな奥ゆかしいのね。

私みたいに「ピアノ弾きまーす。でも、折り鶴折れません」とかはっきり言わない。私の弾けるって、バイエル終了程度。謙遜なしにヘッタクソ。

でも、とりあえず一週間くれれば初級中級一曲ぐらいならなんとかするよ、というのは十分「できる」領域だと私は思ってる。

ところが、みなさん決してできると言わないけど、ピアノの前に座れば、「乙女の祈り」とかだーんだだーんだだーんだだーんだだーんだだーんだだんって、弾けちゃったりするわけで。(このイントロだけなら私も弾けるんだが)

こういう文化圏にいると、「折り鶴折れません」っていってもゆう子さん、ご謙遜を。みたいになってきちゃってややこしいんだけど、私は本当にかわいそうなレベルで、折り紙は苦手なの。

三倍以上時間をかけても、多分「ネタ」レベルにしか仕上がらない。私が造形を司る神に生まれていなくて、みんな本当に良かったよね。

福祉作業所にボランティアで通った時、自閉症の子とチラシを半分に折るという作業を担当したんだけど、施設の方が見るに見かねて付録の袋詰めに私を配置換えしたぐらいで。自閉症の子は超絶うまくて、一生懸命見習って頑張ったんだけどね。

頑張っても、出来ないことってあるんだよな。

って、しみじみ思った。こういうのが「えー、私できませんから」っていうレベルなんだと思う。

そして、出来ないからって別にダメじゃないって、さらにしみじみ思う。

出来ないことが多すぎる私だけど、そんな私のぷにょぷにょした二の腕を毎日ニコニコしながらさわりに来る小学生がいるし、技術的にはいわゆる書道家に圧倒的に負けちゃうけど、気がついたら私に教えて欲しいっていう生徒さんがいてくれて「先生」としても成立しちゃってる。

セキセイインコに与える愛情よりもうちょっと濃い目の言葉がけを飽きずに与えてくれる相方も、とりあえず出された飯はどんなものでも全部食う小僧も、私がいないと困るでしょ。

つまりは存在、ってことで。

そこにいるだけで、いい。

いなくても世の中は全然ぐるぐる回っちゃうんだけど、「いてくれたらいいなあ」ってそう思ってくれる人がひとり以上いたら、なんか人生あげあげじゃん。って気がする。

......ヤバイ、話が完全にそれてる。

何が言いたいかというと、みんな自分にはこれができる、これが得意、という風には決して言わない奥ゆかしさが、日本の一般女性の嗜み。って話だった。

話題が側道に突っ込んでた。修正、修正。

奥ゆかしさ文化圏で、「よし、わかった。任せろ」と腹をくくった時の親たちの、底抜けにデキル作業量ってのが、怖いぐらい素晴らしいんだよ。

特に手作業に関しては、市価三千円ぐらいのものを百円以下のコストで創りあげちゃったりする。それもあっというまに、大量に。私は未だに自分が式典出席する時のコサージュは「試作品だけど......ゆう子さんにあげるね」と、小僧が小学生の時にあのPTA室で生み出されたものを愛用している。多分コレ以上に素敵なものって見つけられないだろうなっていうぐらい、気に入ってる。

子どものためにこんなことやりたいよね、って誰かのアイディアが形になっていく過程の、揉め事も、準備も、そして子どもたちの輝く笑顔も、後かたづけしながらむちゃくちゃ幸せな気分になることも、そういうの全部知っているから、多分PTAが趣味っていうか、もうやめられないんだと思う。

合理的にすればいい。

やりたい人が参加すればいい。

やりたいようにやればいい。

言いたい奴には言わせておけばいいけど、できればやらない奴は何も言うな。

無理も強要も絶対にしない。させない。

そして適材適所。

目的はひとつ、子どもたちのハッピー。

わかりやすい。

今年、私は謝恩会を数名で動かすことになった。

前年度通りで上に睨まれないようにやろうよというメンバーがガチ多い中で、なかなか動けないかもなあと危惧しつつ、私の今までの経験では得意分野がふられた時の化学反応というか爆発力っていうか、そういうのが楽しいわけで、......よーし、ちょっと策を練ってみようと思う。