がんばれ。
と言われると、反射的に頑張る。と答えます。
コレは、ハワユー?と聞かれると、たとえ熱があってもアイム・ファインせんきゅー、あんじゅー? と応えるのと同じ脳みその箇所を使っていると思われます。
ハワユー?は割りといつも同じ熱量で発せられる言葉だけれど、「がんばれ」には、いろいろなニュアンスがあるように思いました。
悪意はないんだろうけど、明らかに上から目線の「がんばれ」は、生々しい傷に最高ホットな唐辛子をすり込まれたような感じで、ちょっと刺激的過ぎます。
でも、悪意はないんです、多分。だから、悪意はないんだ、むしろ善意なんだ、と言い聞かせて、唐辛子を洗い流します。
洗い流していると、ちょっと目に染みて、泣けてきます。がんばれなんて言ってくれなくていいのになと恨めしく思ったりします。
ただ幸い私には、ポーンとがんばれ〜といって励まし終了、ああ私、ゆう子さんに今、いいコト言った。とばかりに終わらせちゃう知り合いより、
「話聞くから」
「一緒に飲もうよ」
「何でも言ってね!」
「わかる。私にも経験が......」
と、共鳴してくれる友達が俄然多くいてくれて、ありがたいなあ。もったいないなあ。と、胸が熱くなり、別の意味で泣けてきます。
彼、彼女たちが大変なときには(そんな日は来ないほうがいいに決まってるけど)、私が喜んで火の中に飛び込もう。と思わせてくれる、たのもしい友人たち。
いつも本当にどうもありがとう。あなた達がいてくれるから、今、かろうじて踏ん張れるんだと思う。ちょっと、一人ひとりには照れくさくて言えないんで、こんなところで吐露しちゃうわけですけれども。
「がんばれ」
と言われたので、
「がんばる」
と返したら、
「ごめん、がんばれって言っておきながら、がんばるを聞いたら、私がつらくなった」
と言ってくれた友達は、やはり今の私と同じような辛酸をなめていました。でも決して苦しいと言わない、強い人でした。強くて、優しいリアクション。
今まで私が日常で使ってきた「がんばれ」と彼女のそれと、優しさ含有量を考えたら、私の「がんばれ」はなんか、自己満足度満点という気がしたの。
がんばれ→がんばる、これで、励まし任務完了、的なね。
そこには、上から目線の「がんばれ」も多かったに違いなく。
自分のがんばりは、自分でコントロールできるからいいんです。問題は、コントロールできない、してはいけない、夫や子どもの成果を笠にきた、上から目線。
子どもの評価は子ども自身のもの、親は単なる伴走者とわかってはいても、子どもの立ち位置こそが、親の成績表みたいになっているのも事実。私の場合は専業母だったから、一緒に勉強して、一緒に応援して、一体感の母子カプセルを作りまくっていたんじゃないか、子どもが何らかで上位にいるときにくりだす「がんばれ」は、みっともないぐらい鼻息が荒く、思いやりに欠けていたのではないかと、今あらためて猛省しています。
お嬢も、小僧も世間の価値観で言えば大したことはありません。だから幸か不幸か、上から目線といったところで、限界はありますが。
でも、受験も、競技も、世間様の相対評価的な価値観と私の好みがたまたま違っているのを逆手に取って、私の尺度なら常に上位というか成功者側であり、私はそういう場所から我が子に対して「がんばれ」、苦しんでいる友人に対しても「がんばれ」、そんな応援を言い続けてきたように感じたのです。そこに共感はないよ。今とても恥ずかしい。
いわく、世間の決めたAランクになど意味がない。
どこに行くかではない、何をするか。
信じている、ここで駄目になったりしない、私の子なんだから。
夢は大きく、目標設定は低めに。
挫折は物語の肝、ハッピーエンドのカタルシスに向けて、大切な要素。
神様は超えられない試練を与えない。
常に今日がスタートライン、勝負はここから。
......自信満々で。キラキラしちゃって。ホッペなんか紅潮しちゃって。安全な場所から、ふんぞり返って、鼻たかだかで。まるで天狗だね。
けど、むりやりよじのぼった成功者の高い木の上から、こんな暑苦しい奴が「がんばれ」と叫んでも、実はちっとも届かないよね。って、いやもう、マジ猛省するわけです。
オリラジのあっちゃんも言ってた。天狗の鼻は伸びていても気づかない、そして天狗には何度でもなる。
そもそも、今痛いの苦しいのって、それはきっと、天狗だった日々の終わり、鼻が折れて心が痛んでいるということなんじゃないの?って思うと、無間地獄の愚痴の垂れ流しがかっこ悪く思えてきました。
猛省の舌の根も乾かないうちになんですけど、(まあポジティブ思考は天狗とはちょっと違うってことで)これは、チャンスなのかもしれません。私に優しい心が芽生えるチャンス。同じ伸ばすなら、鼻じゃないわね。芥川龍之介じゃないんだし。
「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根をのばせ。いつか大きな花が咲く」
伸ばすのは、優しさの根っこだ。痛みを知って、言葉を慎め。
と、自分自身のために、こう日記に書いておきます。
友達の優しさにとっぷり使って、もう、傷口はすっかり癒やされたように思います。何度も言うけど、理性を失って深夜早朝真っ昼間、ご迷惑をかけた皆さん、ごめんなさい、本当にどうもありがとう。もう大丈夫です。おかげ様で、がんばれます。
いつまでも気にしていたら、見つかるはずの突破口も見逃してしまうわ。まずは自分の立ち位置をしっかり見据えましょう。親なんて、木に立って見ているだけでいい。自己肯定すべく、暑苦しく子どもに、知人に、「がんばれ」を叫ぶ必要はない。ということです。
がんばれ、私。
うん、がんばる! アイム・ファイン!