映画のタイトルじゃありませんよ。
離婚したミスタークレーマーvsミスクレーマーが親権を争う、というあの映画は、あんまり好きじゃなかったんです。
そんなに愛しているなら子どものことを第一に考えろよ、と軽く怒りつつ、見ていたのを覚えています。完全に子ども目線だったんだな。
大人がエゴむき出し、っていうのがどうにも嫌いで。
でも、大人だからこそ、エゴをむき出しにするんだし、むき出しにしても力でねじ伏せられるんだ。
ああ、このねじ伏せる荒技が嫌いです。
クレーマーといえば、モンスターペアレンツです。
自分の子だけがかわいい、かわいいうちの子が主役なのは当たり前、という親バカっぷりで、学芸会の劇がめちゃくちゃになっていくツイッターに笑いました。
はたから見れは笑い事。先生方の苦肉の策を笑うのは申し訳ないんですけれども。
44年前、私にも思い当たるクレーム事件があります。
別段笑える話でもないんですが、未だに細部までしっかり覚えています。
私は「三本の斧」の女神の一人になりました。
木こりが斧を落とし、「この銅の斧はお前のものですか」と女神が泉から出てきて聞き、正直なきこりは違うといいます。
銀の斧、金の斧と続いて、私の斧はもっと錆びた鉄の斧だと正直に告げたきこりに、女神が全部持っていけと言ったお話でした。
まだ20代前半の、天地真理似の杉本先生は、新説・不思議な双子の住む村の、不思議な泉にも双子の女神が住んでいて斧をたくさんプレゼント!という脚本を書きました。
きこりも女神も二人セットで登場します。モスラの影響だったのかもしれません。
私は金の斧を持って登場する女神役に抜擢されました。
幼稚園の頃の私は超泣き虫で、隣のひでくんが手をつないでくれないと言っては泣き、ツルが折れないと言っては泣き、鼻水が垂れたといっては泣いていたのです。小学生のある出来事がきっかけで180度変わっていくのですが、当時はまだ一人でお絵かきや粘土細工をしている時がもっとも幸せというタイプでした。
むしろ、アルプスの少女ハイジのような村人たちの衣装が可愛くて、学芸会の後にもそれは着られるのに、女神の衣装はただのシーツの切れ端でつまらないなと思っていました。
しかも「この金の斧はあなたの斧ですか」と大きな金の斧を差し出すおいしい役は、双子の片割れの仕事。
私はその後に延々続く「なんと正直なきこりなのでしょう云々黙ってもらうことだってできたのにさぞや云々ここに置いてある金銀銅の斧も全部あなたに差し上げましょう」双子同士見つめあってにっこり、という長台詞が与えられた橋田組におけるピン子のような配役でした。
当時の私には大変迷惑な話でした。
そんな大きな課題は、幼稚園児には重荷です。岸田智史ぐらいの配役で十分なわけです。
しかし、そここそが幼稚園生活最大の、6年間の自分史上初の、もっとも大きな見せ場だったのでした。
もろちん母は大喜びで「それは頑張らなくちゃね」とお家で何度も何度も何度ももういい加減勘弁して月影先生・・・と思うぐらい何度も、長台詞を練習させるのでした。
今思うと、おそらくセリフ覚えだけは抜群に良かったからの抜擢だったのだと思います。当時の私は自分でいうのもなんですが、記憶おばけでした。
髭をつけたらアラブ人になりそうな、古いシーツの衣装も整いました。今ならハロウィンのお化けのような感じですが、当時ハロウィンはありませんでした。
女神は銅の女神が二人、銀の女神が二人、金の女神が二人でした。
ところが学芸会まであと数日の練習日、不思議な現象が起こります。金の斧担当の女神がぽつりぽつりと増えていくのです。
銅の女神も銀の女神もいつのまにか双子ではなくなり、村人は神隠しにあって、金の斧を担当する女神に改造されるのでした。
おじいさんとシングルファザーに育てられた双子のきこりは、男子しかいない村で優しい青年に育ち、弟が作ってくれたサンドイッチをもって森に向かうことになり、銅の斧、銀の斧、金の斧、自分の鉄の斧と、合計8つの斧をそれぞれ手にした8人の女神が、ぞろぞろと入場しては、舞台いっぱいに広がってそれぞれ分割された台詞をいうことになりました。
分身の術か!
私の長台詞も、みんなでシェア。野望はありませんでしたが、あんなに練習したのに。あんなにお母さんが喜んでくれたのに。と思うと、ちょっと悲しい気持ちになるのでした。
そして誰か洋裁の得意なお母様が先導したのでしょう、シーツで作ったアラビアのロレンス風の衣装は、それなりに綺麗なサテンのドレスになりました。
ぞろぞろ登場する金の女神にみんな違和感はないのかなあ、と思って舞台から眺めておりましたが、ママたちは一生懸命カメラを構えていたのを覚えています。今のようにデジカメじゃないし、カメラはお父さんが扱うものと相場が決まっていたが子供の学芸会に父親が来るという時代でもなかったので、なんだか異様な熱気のたちこめる香水臭い客席だったことを覚えています。
舞台芸術の整合性とかはどうでもいいみたいでした。
無欲な正直な心は、金の斧よりも価値がある。というテーマも全く理解されなかった残念な学芸会でした。
終わって、母に台詞のことごめんね、みたいなことをぼんやり言った気がします。
すると、母は「自分の子も女神がいいって、おかあさんたちがみんなで先生に文句言ったみたいよ。ドレスを着せたいとか、髪型を揃えようとかも。杉本先生、大変だったわね」と笑って言いました。
母は私が金の女神じゃなかったらやっぱり一緒になって文句を言ったか考えて、いや、与えられた任務に全力を尽くせというタイプの母であることが、私にはちょっと誇らしかったのでした。
クレーマー発生中。と聞くたびに、私はあの金の斧を思い出します。
エゴで、全体をめちゃくちゃにしてしまう。
親バカは、悪いことではないんです。
ただ、もう一歩進めて、そんなかわいいうちの子と同じクラスの子が頑張っているのだから応援したい、うちの子はかわいい、その同じ地域の子はかわいい、同じ学校の子は、同じ世代の子は・・・と発想を広げられたらいいのにね。
それでも自分の子だけがかわいい場合、せめて相手のことを尊敬してちゃんと対話をする姿勢で臨むと、「クレーム」は「クレーム」として成立しないように思っています。
杉本先生が、新任二年目ではなくベテランで、美人ではなく幼児教育に一生を捧げる鉄の処女で、奇跡のエピソードのみっつも持っている伝説の先生だったら、うちの子にも女神をやらせろというクレームはなかった気がしますし、杉本先生も相手の勢いに負けて一人女神にコンバーしたからぐちゃぐちゃなお芝居になったわけで、相手のお母さんをきちんと説得するつもりで敬意を払って対話すれば、女神が8人で最後がドタバタなんて事態は招かなかったと思うのです。
なんでも話し合える先生と保護者という関係はとても素敵なこと。
でも、そこに敬意が存在しないと、ただの文句の言い合いになってしまう。
どちらかが力でねじ伏せる関係は、いびつだし不満が残るし、結果的に周りを不幸にします。
クレーマーにならない戦い方をするために、信頼が不可欠です。
しかし、話し合えるためにお互いが持ち合わせるべき信頼は、一朝一夕では積み上がりません。
だからきっと地域にはそれぞれのコミュニティーがあって、イベントやお祭りや防災訓練を通してお互いを知るのでしょうし、PTAはいざという時にきちんと話し合える信頼を固めるために、多少ご面倒でもいろいろな活動をするのでしょう。
職場は家族のように互いを上手にさらけ出しながら、それぞれのポジション取りをしますし、チームは、自分の動きが全体に与える影響を常に考えてプレイします。
違う立場の人の話をしっかり聞き、想いを語り合い、互いに意見を融合させて、ゆずれないこだわりと全体の大きな利益をバランス良く協働させられれば、まあ大方の人間関係はうまくいくような気がしています。
そして繰り返しいい感じでプロジェクトが進むと、信頼という経験値が増えていき人間関係が強固になる。
私には敬愛する友人がたくさんいます。主に、むき出しにしない、ねじ伏せようとしないタイプの人です。
信頼出来る仲間がいます。・・・そこで照れているあなたも、私の大切な友達の一人よ、きっと。
今突然思ったんだけど、
天下国家が最近煽るグローバリズムの根幹って、実はこんな身近なところにあるんじゃないかしら。
別に海外で異文化に触れなくても、フラクタルのようにちゃんと日常のそこかしこにコミュニケーション上達の萌芽が芽吹いていたりする。
自分を開示すること。
開示しあって互いを知ること。
知って尊重すること。
尊重して活用すること。
活用して協働すること。
そこから生まれる信頼関係。ってね、ほら。ああ、今私いいこと言った。
つまりクレーマーの対極に、次世代の日本が目指すべき人材の理想形があるってことなのかも。ちょっとこれ、思いつきだけでなく、もう少し時間をかけて検証してみようっと。
クレーマークレーマーというタイトルでの着地点が見つからなくなってしまったので、今日のところはこれにてドロンします。
小僧が風邪を引いて、応援がなくなり、私にも静かな日曜日。
風邪っぴきの小僧がちょっと苦しそうに寝ている横で、本でも読みましょうかね。では、ゴロンしますね。