射裡顕正

  • 投稿日:
  • by
射には、その人の性格や生き方がすべて顕れる・・・という意味の弓道用語。
お嬢の弓道を見るのがこんなに好きだったのに、私自身が6年間も弓道に踏み切れなかったのは、そんな浄玻璃の鏡みたいなものをぶら下げてのこのこ練習に出かけていくのは嫌だったからだ。
せっかち、不器用、不誠実。
自分の欠点もさすがによくよく理解できている50歳カウントダウンの今、その性格を無理に矯正するのではなく、欠点は欠点として抱えたまま、終生意識し続けていくという禁欲プレイも案外乙なのかもしれないなと思うに至った。
毎度毎度出かけていけば、門前の小僧が習わぬ経を読むように、応援の大人も習わぬ射法八節ぐらいは唱えられるようになる。
射法八節とは、弓の引き方を8分割したいわゆるノウハウなのだが、そのひとつひとつに伝統や由来や技法がクジラにくっついた藤壷のようにびっしりと息づいている。私はまだ超初心者のクジラなので、藤壷もなくツルツルすべすべだが、大王イカと戦った吸盤の痕やら何やらが数多く残った巨大クジラの方が強くてカッコいいように、諸先輩方に学ぶことはたくさんある。
お嬢の学校の弓道部応援団達から「大人弓道部」設立の機運が高まり、私の50の手習いが始まった。
全員に直属のコーチがいる。というのが、この大人弓道部の強みである。
体や力は圧倒的に父母クジラの方が大きくても、藤壷の数や連戦の傷跡が、かけてきた矢数が、圧倒的に子ども達にかなわないという、立場の逆転現象も実に面白い。子どもが、弓道部の「先輩」なのね。
目的は「懇親」と明確で、月に一度、学校の弓道場を使わせていただき、顧問にご指導を乞う。
初回は半月前、全員ノンストップで三時間、夢中で射法八節を学んだ。このエネルギーで発電する方法はないかと一瞬思うほどに、熱い濃い三時間だった。

それ以来、毎日必ず徒手練(シャドーボクシングならぬ、シャドーキュードー)する。
いつでも手に届くところに、でっかいパチンコのようなゴム弓を置いて、どんなに時間がなくても最低四回はゴム弓を引く。
歯磨きをするように、日常に弓道が滑り込んできた。
お嬢がやっていたウズラ卵を持つ練習は主婦にはできないが、何十年もやっていなかった正座が太り過ぎのあまり全くできなくなっていたので、とりあえずできるだけ正座をしようと思う。
まず入門者のすべきこと、できることからこつこつと。
そんなことが、案外楽しい。

お嬢の国体が終わった。
初日は台風で中止、応援団の動きも大混乱、親族一同での応援もキャンセルになり、暴風雨で練習もできない中、一人になる時間もなく、士気を保つのも大変だったと思う。それでも、条件はみな同じ。
「長崎がんばらんば国体」東京代表、少年女子の部は下馬評通りには行かなかった。
岐阜清流国体、スポーツ祭東京、長崎がんばらんば国体。
補欠も含め三年間、国体の東京A代表でいられたこと、その誇り、重圧、巡り会った方々から学ばせていただいた大きな財産は、私には想像もできない。親として平身低頭、伏して感謝したい気持ちはあるけれども、おそらくそんなことじゃ全く足りないぐらい、与えていただいた時間と機会には価値があるだろうと想像する。
そうして臨んだ、本大会だった。
射裡顕正。
あの不本意な射を、彼女自身がどう活かしていくか、真価が問われるのはこの先なのかもしれない。大学弓道の道は選ばず、それでも弓と矢を背負って、飽くなき克己心とともに颯爽と新天地に出かけていくのだろう。
最後の一矢が60メートル先の的心を逸れたとき、伴走者だった私の三年間、いや、中学から見守り続けた六年間も終わった。
おつかれさま、お嬢。
おつかれさま、私。
弓を始めちゃった以上、何年かかっても60メートル先の的に届くまではがんばろう。それがどんなに大変なことか、今なら少しだけわかる気がする。
大会は終わり、その結果がどうあれ、お嬢は誰よりもかっこいい私の「心の師匠」として焼き付いているから、少しでも近づけるよう精進しよう。