私の現状と資格をとる意義についての考察

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相方が死ぬほど忙しい状態になっている。
でもまあ、人は案外頑丈にできていて、死ぬ気でやってもなかなか死なないものでもある。
ただ、忙しいとほんのちょっとだけ心を亡くす。
私も似たような仕事を15年ばかり、さらに相方と一緒になって既に二十年を超えているので、だいたい忙しい時のかわし方みたいなものは知っている。
相方は一人でつっ走っているつもりだと思うが、私は陰ながらチラチラと明子ねぇちゃんのように見守っているつもりでいる。
お嬢も見守っているし、小僧も見守っている。
大会では、席がないとじーっとたたずんでいたりもする。
ベンチだった小僧に来ないでと言われて、陰からこっそり見つめていたこともある。
でも、もう既に子ども達はあんまり見守りを必要としていないようだし、相方はおそらくハナからどうでもいいし、邪魔だし、と言うに違いない。
生活に困って始めたバイトだったが、今では「空の巣症候群」に陥らないための処方箋であるかのような、児童施設での仕事。
さらに、お習字の方のオファーもいろいろなところから頂いて、雇われ先生はなかなかに忙しい。
見守るべきは自分の子どもだけじゃないというのは、意外に豊かな相乗効果をもたらす。これはPTAが教えてくれた教訓なのだけれども、子ども達に寄り添えば寄り添うほど、充実感は増してくる。
子どもはどんな大人にもとてつもない量の愛でぶつかってくる。これは、とても甘美で、ちょっと溺れ気味だ。

だが反面、私の志はどんどん見えなくなってしまっている。
私は通信教育で学ぶ大学生だ。けれども、果たしてこのままでいいのかと自問自答することが多くなった。
今、まさしく、心を亡くしているだけなのかもしれないのだが、社会福祉士の資格をとる意味が見いだせない。
私の場合は履修届に精神保健福祉士も合わせて出したから、実習が二つある。変更はきかない。
福祉が必要な人に寄り添う優しさに欠落していると気づいてしまった現実をどうしたらいいのだろう。
発達障害を始め家族に問題を抱える人たちの力になりたいと思って学籍を置いた心理学部だが、今いる児童施設での日々の発見が楽しくて仕方なく、おそらく私は資格をとっても困難な方々に寄り添う就業はもうできないように思う。
個別には障害を抱えた方達とのおつきあいがあり、昔はその人達やご家族を私が導く気合い満々だったが、今ではむしろ一緒に時間を過ごしていると私が楽しいのであって、資格の必要性が全く感じられなくなってしまった。
発達障害に対しての理解も昔に比べたら格段に進んだ。
ゆとりの世代の若者は、おそらくバブルの恩恵を受け、その上ブラック上等な私たちの世代より、平均値でみたらずっと優しいと思う。冷たい私が福祉に従事するより、適材適所の方が、当事者さんも幸せだと思う。
海外に暮らすときに、そちらでカウンセリング等の手助けを・・・そのときに日本人村では国家資格がさぞ役に立つだろうと思っていたが、おそらく私は旅行者にはなっても移住者にはなれないのだと、去年悟ってしまった。

姉が亡くなって、限られた時間について初めて意識した。
好きなことをやって過ごしたい。
大金を支払って、ふたつの実習で苦しんで、国家試験の為に勉強しても、あまり大きな意味はないように思えてならない。
実習をすっ飛ばして単位だけとれるなら、もうスクーリングは残すところあと8単位だけだし、来年、お嬢の進学と一緒に復学してさっさと卒業してしまおうと思う。
だが、実習免除にならない場合は、すっぱりやめようと決心した。
「女子大生」という立場も、キャンパスも、学友との語らいも、大好きだというこの愛着をなんとかしなければならないのだけれど。
いっそ、お嬢と一緒に受験し直すか。
社会人入試という方法もあるらしい。
学費はバイトでまかなえるだろうか。

てなことをお嬢に語っていたら、朝のニュースで生涯学習についてのニュースが流れた。


まるで私の声が天に通じたみたいに。
私にとっての一番の快感は「そうだったのか!」という発見だったりするので、依存症のように本を読み、ネットで遊びほうけて、家事がお留守になっている。
とりあえず、じっくり検討だ。
大学の方とも話し合わなくちゃだし、生涯学習のシステムも見てみなきゃだ。
ああ、こうやって時間がどんどんなくなっていく。
でも、新しい予感が充満している春のせいか、あるいはすっぱりと腹が決まったせいか、なんとなくうきうきする。
では、今からご飯を食べて、そろそろお習字の先生に変身しよう。
今日のお手本はとってもいい感じに書けているので、それも気持ちいい。
滞っている家事も、方向が見えたら進展がありそうな気がする。うん、そうだよ。忙しいけど、なんたって春だからね!