毎年、母が摘んで姉が送ってくれる春の山菜、とりわけふきのとうは、東京で買うより何倍も苦くて美味しかった。
今日、相方の実家の山を降りるとき、道端に自生する大きくなったふきのとうを見つけて慌ててシャッターを切った。
嫁して20年、こんなところに芽吹くとはつゆ知らず。
ふと目をあげれば、たくさんのウグイスが一斉に飛び立った、満開の梅の木々。
相方は自然豊かな山育ちである。その実家の風景は牧歌的だ。
21世紀の今も携帯の電波が一部しか届かず、水は湧き水を引き、風呂は山のたきぎを使い、薪割りした薪をくべて沸かす。
夜は稜線に切り取られた漆黒の空に満天の星。明け方には鳥が鳴き、蛙が鳴き、虫が鳴く。キタキツネが出れば「北の国から」のようだが、サルとハクビシンぐらいしかお目にかかったことはない。
庭の山で自然薯を掘り、裏庭から椎茸をもぎ、段々畑には季節の野菜があり、夏みかん農家として出荷もしている。
鹿狩りやイノシシ駆除のときには、狩猟会の方達から肉も分けてもらえて、野趣豊かな鹿肉は私の大好物でもある。
玄関には、毎年ツバメが巣を作る。
ゴミは瓶や缶や粗大ゴミ以外、自分で埋めるか燃やす。間違ってKindleファイヤーがくべられてしまった時にはビックリした。
そんな大自然の中で育った相方は高校卒業後上京し、姉は地元に残って養子縁組みして家督を継いだ。
悠久の山の「プライスレスな豊かさ」を、母と姉は二十年も笑顔で私に送り続けてくれた。
不便さの部分は、自分たちで粛々と請け負って。
とりわけ姉は東京に住む不肖の弟嫁を褒めて育て、姪と甥にあたる私の子どもたちにも惜しみない愛と潤沢な自然環境を与えてくれた。
夏の大沢合宿はひ弱な東京の子どもたちにとってお楽しみの行事だった。姉は会社の休暇をとって取り仕切り、毎日それはもうパワフルにイベントが繰り広げられるのだ。
明け方にくぬぎの木を蹴りにいきクワガタやカブトムシをボトボト落として、それを虫かご一杯につめたことや、連日の御菓子作り講座では基本クッキーに始まりあらゆるケーキを焼きに焼いた。
山道を軽トラで爆走してからの野菜やみかんの収穫は、東京では絶対にできないことだ。
少し大きくなってからは山道を走り込む小僧に、緩急が厳しすぎて吐いた後の冷たいシャワーと美味しいごはんをたっぷり用意してくれた。
親元を離れての子どもたちだけの初めての旅、そしてお泊まりもあった。子どもたちの成長を促した、一生の宝物だと思う。
小僧は今、難なく山を往復できるほどの走力をつけた。JRで下田行きのチケットを買うときにぼられていないか電話で金額を確かめてきた心配性の娘は、一人で海外留学をしたいと言いだしている。
今年のお正月に会った時には、そんな成長を手放しで喜んでくれた姉だった。
彼女の二人の娘たちも、思えば大きくなった。
私が嫁いだ時に幼稚園児だった姪1は、ちゃっかり憧れの君の妻になり子どもにも恵まれ、私たちの新婚旅行中に産まれた姪2は、今年成人式を迎えてパティシエールの夢を叶えている。
春夏秋冬、帰省すれば美味しいもの尽くしの宴会だった。いっぱい飲んで飲まされて、笑って歌って楽しかったな。
キャリアを磨き続けて社会的地位もある人だったから、会話は巧みで場の空気をうまく持っていく。料理上手で家事に長け、寸暇を惜しんで庭中をバラ園にしたり、山や畑の仕事も厭わなかった。
悔しいけれど仕事量はもちろん、私はとうとうボーリングも卓球も勝つことができなかった。
寛大な人だったから、遠慮なく甘えて頼った。
実家のどこに何があって、どう使うか。田舎の流儀はどうなっているのか。一緒に飲みにも行ったし、ライブにもいった。ついでに東京の家の植木の手入れまでお願いしていた。夫婦喧嘩をすれば、真っ先に電話するのは姉だった。
出来過ぎの姉であり、心許せる先輩でもあった。
河津桜が満開の道を、ひな祭りに走る。姉の突然の葬儀のために。
あまりにも演出効きすぎだよ、琴ちゃん。
それで、私はこれからどうすればいいの?
いつものように何かを相談したくても、もう姉がいない。
気丈すぎる母も、仲良し姉弟だった相方も心配だけど、私もまだこの現実を受け止められていなくて、こんなんで大丈夫なんだろうかと自分に自信が持てない。
山にも家にも、あらゆるところに今はまだ確かに姉の気配があるからそんなに淋しくないけれど、これから少しづつ感じる不便が、毎度毎度失った悲しさにつながって、ひとつづつ喪失を認めて行かなければならないとすると、怖くなる。
横たわる綺麗なご遺体。
一番大きな会館での、美しく盛大なご葬儀。
部下が折った千羽鶴と手紙や色紙が棺に納められて、たくさんの弔電、涙とありがとうが、大勢の参列者から。
献花しながら、ああやっぱりね、と思っていた。
「頑張っていただなあ。愛されていたことが伝わってきて、ありがたいことだじゃ」
と、一回り小さくなった母も言う。
ありがとう、琴ちゃん。
また会おうね。
と、声をかけた。
それはいつもの別れ際と同じ。次はいつ、という約束だけできなかったけれど。
有能な姉のことだから、きっと天国でもバリバリ働くのだろう。眠っていてもすぐに起きてきそうな、そういう気迫があった。
そうだね、じゃあ先に始めてるから。ゆっくりおいでよ、安全運転でね?という、いつも通りの声が聞こえてきそうだった。
姉は、52年の人生を濃くタフに楽しんで生きた。
意識を失う直前までLINEで交流していたので、私は病院から呼び出されて説明を受けながらも何かの間違いのような気がしていたけれど、家族想いの人だったから、父のときに五年間の闘病で疲弊していた母をいたわってレアケースを選んだのかもしれないし、父に愛されていた姉だったから、まあそういうことならと急ぎ呼ばれてしまったのかもしれない。
女性としては最高位の所長代理にまで上りつめ、優秀な部下達と共に家族的な社内で大半の時間を心地よく過ごし、五年前のガン発病からは病気と闘って闘い抜いて制圧し、娘たちの幸せを自分の幸せとしてちゃんと勝ち取ってから、再発してあっという間に弱った姿を四日間で仕舞って、颯爽とかわいいお顔で旅立っていく。
実に、姉らしい死に際だった。
姉はそういう生き方をした人だったから。生きてきたように、人は死んでいくのかもしれない。
何でもできる自立した、かっこいい生き方だった。
そういう人と今生で姉妹になれて、私は本当に幸せだったと思う。迷いそうになったら、姉を指針にすればいい。
姉の子ども達も、私の子ども達ももはや大きくなって、姉の手はなくても大丈夫。でも芯の部分で、いつまでも消えない姉が存在し続けるのだと思う。血縁って、そういうものだと思う。
ああもう、琴ちゃんったら最期までかっこいいんだから!という言葉で、追悼したい。