四十数年ぶりらしいから、もう生きているときにはこんな大雪に見舞われることはないね。と相方がいう。
自分が経験した大雪の楽しかった思い出を語りながら、相方は小僧とお嬢をつれて外に行き、一緒に雪かきをした。
美大の血が騒ぐのかざくざくと彫塑を作り、それはそれでお嬢が写真を撮ったり。
子どもたちは自分の体で雪にスタンプをしたり、巨大な雪だるまを作ったまではいいがあまりに巨大すぎて道路で動かせなくなり、立ち往生したりしていたという。やれやれ。
笑いながら、雪かきが進んでいく。
毎年、雪かきといえば私が主戦力だったのに、今年は意外にも戦力外だ。
せめてたくさんお湯を沸かして部屋を暖め、手と足を湯につけてしもやけ予防ができるようにしておく。
風呂をわかして、新しいバスタオルを用意しておく。
楽しかった思い出はお父さんと。
暖かかった思い出はおかあさんと。
というのがいい。
私はもうはしゃがない。そうだね、年をとったんだ。
静かに、静かに、私は年をとっていき、こうして家族が先に進んでいくのを後ろからじっと見守ることが多くなった。
先頭を切って道を指し示さなくても、小さな手をつないであるいはその体を抱いて「そこ」に連れて行かなくても、もう子どもたちは何でも自分でできる。
彼らの手は、背は、もうとっくに私より大きくなった。
ほんの少しの寂しさと、大いなる誇らしさ。
でも、じゃあ私は彼らが独立して出て行ったとき、一人で何をするのだろう。
自分の人生を全部かけて、一緒に過ごしてきた日々はとてつもなく楽しかったけれど、彼らの人生は彼ら自身のもので、私のものではない。彼らにとって私はほんの一時期を過ごす伴走者にすぎない。
そうでなければ困る。
困ると思いながら、彼らが私の中に占めている存在の大きさはいったい何だと思う。
彼らがいなくなったときの、抜け殻感は。
暖かい部屋にひとり残っていて、私はそんなことを考えていた。
一時間が経過して、風呂も沸いたことだし、どちらかが部屋に入って風呂で暖まりなさい、と呼んでみる。
でも、返事はない。
彼らは夢中になって雪遊びをしているから。
大切な試合が待っている身だと呼びかけてみた。
何かしろといったところで、もう言うことなんか聞かない。
自覚でしか、動かない。
だから、次の試合の日程だけを叫ぶ。
お嬢は学校代表だし、小僧は最後の最後に試合に出られるチャンスがあるかもしれないほどに、今、絶好調だという。その波を崩したくないから、早く帰ってこいというのはマネージャーとしての私の心。
しかし、もう「おかあさんがそういうから」帰ってくる「子どもたち」はもういない。
自ら帰ってくる「選手」がいるだけなのだ。
行動が伴うのは、自分で決めた目的のために頑張ると決めたときだけなのだと、彼らを見てて思う。
母がどんなに口うるさくやれと言っても、やったふりでおしまい。やったところでいい加減。それでいい結果が出るはずがない。
しかしだからといって、全部自分でコントロール出来るほど意識の高いアスリートというわけでもない。
促す。それを癖にする。マネジメントを教え込む。自発的にそれができるようになるまで。
長期戦で戦う、親もまたアスリートだ。
アスリートは体だけを鍛えていればいいというものではない。
学生の本分は勉強である。
お嬢は何も言わなくても、勉強を楽しんでいる。だから家庭学習も率先してやっている。
勉強を楽しいと教えてくれた学校に感謝だ。
問題は、全く勉強をしない小僧である。受験が終わってからというもの、クラブチームと部活動に忙しいからという理由で、試験前以外は全く勉強をしない。携帯ゲームをする時間はあるのに勉強する時間がないらしい。
このまま自発性を待っていたら、高校進学すら怪しくなるだろう。
「お母さんを安心させるために五分間だけ机に座ってほしい」
という申し出をしてみた。
懇願大作戦である。
五分すわれれば、興がのってそれを一時間に変えることができるかもしれない。だが最初の五分だけは、強制的にでも、しっかり癖を付けなければならない。
しかし「やれ」と言ってきくはずがない。
五分で終わる超簡単ドリルを用意し、
「結果は問わない、ただこれを五分間埋めるだけでよいので、お母さんを安心させるために机の前に座ってほしい」
とお願いする作戦に出てみた。
「面倒くさい」に対しては「面倒くさいけれどお母さんもこんなことをしている、面倒くさいからやらないでいいなら、これとこれをやめる、やめたところでお母さんは何一つ安心しないけれども」
「勉強は図書館でやっている」に対しては「それはそのままキープしてくれればいいが、なんならそっちをやめてくれてもかまわない。あかあさんを安心させてほしい」
「自由はないわけ?」に対しては「お母さんを不安にしたままで自由を謳歌できるわけ?」
・・・ああいえばこういう詭弁の権化で、なんとかドリルを一日五分、幼稚園児以下の家庭学習時間ではあるが、確保することに成功した。
一年生は10分、三年生は30分、6年生は60分の家庭学習時間が必要だといい、同じクラスの周りのお子さんたちは90分ほど勉強しているというのだが、最初から焦っても仕方ない。これはリハビリなのだ。まずは五分から始めよう。
「やれ」と言ったのではきかないし、自発性も促せないが、とりあえず「やる」ことになったのだから、よかったとしよう。
中学生は距離感をはかるのがめんどくさいし、難しい。
「あとは君次第」
と放置してしまうのは楽だが、それはまだちょっと無責任な気がする。
かといって、張り切って関わりすぎてもあまりいい結果は生まない。
このいらいらする微妙なバランスをうまくさばいて、無事義務教育を終えたら、そのときが私の引退のときだ。
ぽっかりあいた心の穴の大きさを嘆いたり修復し始めたりしよう。雪が降って、あまりに静かで、ちょっと感傷的になったけれども・・・今はまだ先のことを憂う暇はなかった。