おさんぽ

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須藤真澄さんほど大王にはなれないのだが、おさんぽの楽しさに目覚めている昨今である。
PTA仲間に誘われて、朝のおさんぽを始めたのは以前も書いた気がする。
気がついたら何時間でも話し足りない友人と小一時間を歩く。
朝の公園の美しさやら、汗をかく気持よさや、体重が減るご褒美も捨てがたいが、何より、ひたすら楽しくおしゃべりをしているとあっという間に五キロ七キロ歩けているという魔法のような時間の過ごし方は癖になるようで、週に二三回のその朝がすでに待ち遠しい。
五キロぐらいなら簡単に歩けちゃうんだなあという実感が伴ってくると、仕事にも歩きで行って帰りには遠回りしようとか、待ち合わせの駅まで歩いてみようとか、万歩計がジャラジャラ目標達成音を鳴らすような毎日になる。
そのうち電車に乗って下北沢や新宿に出てから歩こうとか、皇居をまわってみたいとか、いっそ川越に小旅行しようとか、韓国に行くのはどうかとか、だんだん発想のスケールが大きくなっているので、歩行距離もさらに増えそうだ。

富士山に登ったこともない。高尾山にリフトで登ったのがせいぜいのところで。
私が密かに憧れている友人は家族で富士山登頂に成功している。それは理想の形だった。今後の人生で多少つらいことがあっても、家族で乗り越えて山頂で見た景色はどんな金塊より心の支えになろう。
うちは、それぞれが忙しいかなりバラバラなアスリートたちだから、そういう一致団結の理想の家族旅行は思い描いても悲しいだけだけれど、せめて、母ちゃんは元気で富士山登山がいつだって可能だよという鉄の体力で笑っていたいと思う。家族の誰が富士山に登りたいと言っても伴走できるような、準備だけはしておきたい。
永遠に来ない出番でも、準備は大事。
そして、おさんぽごときで何を言っているんだろうと笑われている気もするが、高い志は大事。

ええーっと、家族の誰かがフルマラソンだのトライアスロンに出たいと言っても大丈夫な体力までは、多分無理です。

忍びよる老いに抗う気はなかった。
静かに枯れていくのが美学だと思っていた。
でも、痛いんだもん。老い、痛いんだもん。この痛いの、やだからさ。

朝日を浴びて、朝ごはんを食べている限り、まあ大抵のことは大丈夫な気がする。
そして、一緒に歩く年若い友人が私に輪をかけて楽天的なため、悲壮感あふれる相談だったとしても、わずか三分で解決するのがとてもいい。

更年期を言い訳にちょっと停滞していたいろいろなこと、堰き止めているのは何なのか、自分でもまだよくわからないのだけれど、たかがおさんぽから何かが動き出しそうな予感がある。
動き出そう、と決めた瞬間、止まらない勢いになるのは今までの常套だったけれど、多分もうそんな勢いはどこからも湧きだしてこない。それでも、おさんぽが思いがけず楽しかったように、ゆっくり新しい発見をしていけばいいのかもしれない。