どこで何を食べても美味しい。
いつでもどこでも、寒くない。
人々はのほほんとしていて機嫌良く、
がんばらない。怒らない。受け入れる。笑ってる。
二十年前に初めて訪れたかの地に、私は一目惚れをした。
でも、その場で移住してしまう勇気はもてなかった。
当時は天職だと思っていた仕事があり、
東京は暮らしにくかったけれど、
興奮するモノが溢れ、しかも、
その厳しい感じは自分が鍛えられて向上するようで、簡単には捨てられないのだった。
そうだ、いい大人になったら。
がんばらなくてよくなったら、タイに暮らそう。
完全な二股のひとつを「未来の夢」にすえることで、ひとまず解決した気分になる。
タイに移住するんだ。
だから頑張ろう。
タイに移住するんだ。
頑張れなくなっても大丈夫。
タイに移住という夢は、この二十年、確かに私の大きな心のささえでもあった。
今、子どもたちは大人になりつつある。
私は天職を捨てて『お母さん』に転職し、それが天職に思えるほどに楽しい日々を送っていたけれど、思春期の彼らに過干渉気味で、うまく子離れができずに悩んでいた。
近くにいれば世話を焼き過ぎて、そのくせ一人前でないことに苛立っている。
だが、自立のチャンスを奪われて「やらなくていい」という無音の空気がありながら、できなければ叱られて、彼らも苛立っている。
できないくせに文句ばかりいう、と私が腹を立てれば、彼らは、決められた手順や勝手な制約や意味のない重要度に従えといわれることにいい加減、辟易とする。
完全な二股のひとつを「未来の夢」にすえることで、ひとまず解決した気分になる。
タイに移住するんだ。
だから頑張ろう。
タイに移住するんだ。
頑張れなくなっても大丈夫。
タイに移住という夢は、この二十年、
今、子どもたちは大人になりつつある。
私は天職を捨てて『お母さん』に転職し、それが天職に思えるほどに楽しい日々を送っていたけれど、
近くにいれば世話を焼き過ぎて、
だが、自立のチャンスを奪われて「やらなくていい」という無音の空気がありながら、できなければ叱られて、彼らも苛立っている。
できないくせに文句ばかりいう、と私が腹を立てれば、彼らは、決められた手順や勝手な制約や意味のない重要度に従えといわれることにいい加減、辟易とする。
子どもが小さくて無力だった頃には笑いが絶えなかった家庭内が、なくとなくギスギスした感じになっているのは、おそらく更年期VS思春期のホルモン大戦争のせいだろう。
私も49歳、タイのリタイヤメントビザ取得可能な年まであと一年だ。
あとおよそ一年でお嬢の大学進路は決まり、あと二年で小僧は高校生になる。少なくとも五年後には、私の「母親」という仕事は概ね引退を迎えるのだ。
私の大学復学に向けて、資格取得の必要性を精査する必要もある。
そろそろ移住への具体的な準備を始めてもいいのかもしれないと思いたち、相方と一緒にタイの下見に行くことにした。
そろそろ移住への具体的な準備を始めてもいいのかもしれないと思いたち、相方と一緒にタイの下見に行くことにした。
子どもたちには私の実家または親戚の家から学校に通うように言い渡したところ、
「いやだ、遠い」
「なんとかするから、家から通いたい」
と、大ブーイングだった。彼らには私や世話をする人はもはや必要なく、この地の利の方が必要なのだった。
相方は
「自立のチャンスだ。自分たちで洗濯したり掃除したり、ご飯を食べることがどれほど大変か、いつもおかあさんにどれだけ頑張ってもらっていたかがよく分かるだろうし、ちょうどいい」
と言う。
戸締まり、消灯、火の用心と早起きのトレーニング期間を設けて、できなければ罰金を課し、これならなんとかなんとかなるかもという判断で、私達は魅惑の国・タイに出かけた。
だが。
昔あんなに昵懇だったタイは、四十過ぎて突然出席した小学校の同窓会のように、別人の様相だった。
ワクワクしない。
ドキドキしない。
アラサーにはB級の面白いものがたくさん光り輝いて見えていたはずなのに、アラフィフの今、もうそれらはどうでもいいものになっていた。
東京価格で贅沢しても、どこかでチープな気持ちにさいなまれる。
20バーツ60円を値切ることがめんどくさい。
約束や時間が守られないことが、妙にイライラする。
何かの間違いだ。
最初はそう思った。
しかし、生活者の視線で再チェックしに出かけたのだから、観光客だった以前と違和感があるのは当然だ。
たくさんのエリアのアパートを見て回る。
相方は仕事ができるか試してみる。
生活する場合の過不足について考える。
そして何度も何度も痛感したのは、いざここの住人になるためには私のタイ語学力ではとうてい足りないということだった。
ロングステイなら、あるいはメイドさんを雇える駐在のマダムなら、この程度のタイ語ができれば上等だが、読み書きが出来ないではタイ人のように暮らすことは不可能だということが改めてわかった。
私はこの20年間、口を開けて飴が降ってくる夢を見ていただけで、なんの努力もしてこなかったと泣きたい気持ちになった。
今から五年間かけてやるべきことの第一は、タイ語の読み書きだ。大学でSWやPSWの資格をとることよりも優先されるべき課題だ。
タイで私自身が働くとして日本人相手に何ができるか。
本当に老人や精神を病む人に寄り添うことが、私がタイでやりたいことなのか。享楽的な異国で、貴族のような暮らしをする日本人相手に、たかが資格一つで、一体私に何ができるのか。
苦い顔の私に、相方は
「マリッジブルーみたいなもんかな」
と分析した。
遊びならいいけど、一生を捧げる場合・・・と、考えこむのは当然のことだ。
おそらく相方も同じように感じていたのではないかと思う。
遅くまで話し合いながら、具体的な五年後という話はたち消え、移住計画は無期限延期になった。
厚生年金もない、将来の保証もない。
いつまた去年のように、娘を売るか家を売るか、みたいな経済危機が訪れないとも限らない。
それでも私には、笑っていられるだろうという根拠の無い自信があった。
タイに住んでいれば、なんとか生きていけるって。
でも・・・野良犬ならどこにでも道路に寝そべっていて、シャム猫の野良猫が気品あふれる微笑みを見せても、まさかそれらに自分を重ねることはできない。
延々話し合って、タイではない場所を求めて二人でまたアジアをちょっと旅をしてみようという事にはなった。
「アジアを食う」人生の後半戦編の幕開けだった。
タイが嫌なのじゃなく、老後が嫌なのか。
突き詰めて考えることが、こんなに苦しいとは思っていなかった。
まだしばらく東京で。
もしかするとずっと東京で。
ただひとつだけいいことがあるとすれば、子どもたちは案外平気で自分たちの身の回りのことをしっかりやっていたという成果だ。
すでに、守るべき子どもたちと暮らしているのではなく、自分も含めて私達家族は未熟な大人たちの集合体になっていた。私達はそれぞれが自立して、それぞれが自由だ。
って、それはいいことだよね。
家族としてのゴールに近いってことだ。
でも、その現実こそが、実は一番私には苦しいのかもしれないと、正直に吐露してしまおう。
もう人生の黄金期は終わっちゃったんだな、という旅の終わりの感覚が、切なくてつらいのだ。
凪にわざわざ石を投げて、波紋を立てて。
老後なんて、気づいたら老後だった、ぐらいのもんでよかったのかもしれないのに。
東京で生き続ける自信もなく、移住する勇気も凹んだ。
さあ、これからどうやって生きていくのがいいのか。
とりあえず、焦らず、ゆっくり考えていこう。精神だけは、「マイペンライ」(なんでもない)ってとこで。
この項、これからもしばらく続きます。いい方向に着地するよう、祈るような気分です。