字を書く

  • 投稿日:
  • by
ダウン症の書道家がいる。
国体の開会式では「夢」を大書し、その横に飾られた高校書道部の作品「結」「絆」とは格の違いを見せつけてくれた。
無名ながら、うちの母・ヨシコも書道家だが変わった個性の人だ。人としてはともかく、書道は実に伸びやかで圧倒的にうまい。
敬愛する武田某先生のような、字も美しく人格円満ビジネスもお上手そうなタイプの書道家がベストなのかもしれないが、まあ多少エキセントリックであっても、書道家は書く文字こそが命。その文字が素晴らしければ、日常生活で多少できないことがあっても全然OKなのだと思う。

「ゆうこちゃん、こういうのどう?」
と目指すべき手本として友人が持ってきたのは、未来を幸福にする書を販売している怪しいセンセイだった。
里見か。
私はトリックに出てくる山田奈緒子の、長野在住の母・里見なのか。
ああ、この程度なら書けるなあ。この程度の書道パフォーマンスも、カウンセリングも、できちゃうなあ。
・・・とか、お金が金庫で唸っていそうなそのセンセイの作品を見て一瞬思う。

私の適性で言ったら、絶対に成功する職業は詐欺師だと思う。
だからこそ、絶対に手を出さない。合法じゃないってことは、誰かを不幸にする可能性があるってことだ。
テレアポも、セールスも、バイトは合法でも、そこは探さない。私の場合は何か道を踏み外しそうな気がするからだ。

以前、小僧に「おかあさんは書道を使って人を幸せにすることはできないの?」と聞かれたことがある。
3,11でみんなが知恵や金や勇気をバンバン出していた時のことだ。
書道を教えて義援金にするぐらいしかないなあと答えたけれど、それからずっと引っかかっていた。
引っかかってはいても、方法は見つからなかった。
せいぜい、言葉を思いを込めて書いて、おみくじ的に矢文にして、子どもたちの応援グッズにするぐらい。
だが、残念なことに私の書く文字に不思議なチカラは宿っていないことは、子どもたちの成績が見事に証明してくれた。
自分の書いた文字を筆耕料として頂くときには「お気持ちで」というスタンスだったし、そもそも文字に対価という発想がダメだ。お習字を教えるのだって、本当はタダがいいと思っている。
それじゃあプロとしての挟持と責任が保てないし、材料費と体力的負担が掛かり過ぎるのでいただくのだが、私の教室が子どもたちを幸せにする空間ならいいなと思いながら教えている。
時々、書道より一緒に遊んじゃったほうが楽しいんじゃないかと思ったりもしながら。

エキストラで、頼まれれば個別指導にも行く。
左利きの子の指導をしながら、その子が初めて書道を楽しいと思った、と言ってくれた時には嬉しかった。
左利きの子の指導は心理学研究の演習を受けていて応用できることがたくさんあって、指導法として試してみたら意外に実践的だったといういきさつがある。
これは、ちょっとした幸せのタネかもしれない。実をつけるまで、手入れをする必要があるが。

発達障害や知的障害を持っているお子さんの指導にも行ったことがあるのだが、その時に驚いたのは、実にユニークないい字を書くことだった。伸びやかな線は、その人の人となりを顕著に表す。率直にそれを口にしたら、保護者の方が涙ぐまれた。
「褒められ慣れ、していないものですから」
と泣き笑いしたその方を見た時、書道がもつ可能性が、人を幸せにするのかもしれないと思った。
字を書くのに、背景はいらない。
ただ、字を書く。
集中して、書く。
字をかく、筆に勢いに、自分の気持ちを乗せる。それが、表現になる。

私の中で、まだ書道は中途半場な位置にある。
最大の問題は、私が書道家を志すほどに書道が好きかと問えば、全然ダメだということにある。
指導者としては未熟すぎることも自覚している。
学んだ師範科で教えられたことは、私の教えたいことではないし、といって「ゆうこ流」を立ち上げるほどの知識も経験もない。
だが、書道には確かに可能性がある。
書道家として食べていけるのはごく一部の人だろうが、障害があってもなくても、書の前で人はまるっきり平等だというのも悪くない。

この項は書きかけ。書きかけのまま、終わっておこうと思う。
結論は自分の中でもまだ当分出ないけれど、文字の持つ可能性について、書道の可能性について、覚書しておきたいと思った。