けれども、高校生になって彼女自身がメディアと係ることを容認したので、探す気になれば簡単に探せてしまう。
なのにずーっと虚像P子さんのままでいるのは、そろそろどうにも違和感がある。
彼女の成果は、彼女自身のものだ。
だから彼女が受けるべき「おめでとう」を私が「ありがとう」というのには違和感がある。
だが、同時に彼女の一番身近にいる応援団として、笑ったり泣いたりしているそれ自体こそが、今の私の最も大きな部分でもあって、彼女について触れないと私の半分が描けないことになる。
ずーっとこのブログを読んでくださった方には、彼女が幼稚園時代にお店屋さんごっこで「バナナ・チョコレートがけ ハチミシがけ」と書いた頃から《東京に住んでる遠い親戚の子》のように身近に感じてくださっているだろうに、彼女の頑張りをご報告できないのも淋しい。
というわけで、インターハイ出場決定ぐらいから、なんとなくツイッターも含めて、彼女の部活での頑張りをぽちぽち公開している。
10月には、国体の東京代表として、小金井で全国制覇を目指して戦う。
彼女は、去年、岐阜清流国体の補欠だった。
メンバーである誇りと、試合には決して出られないもどかしさ。
そんな想いが、ぼんやりしていた彼女に火をつけたのだろう。たくさんの指導者の方々に、心身ともに鍛えていただいて、成功と挫折を繰り返しながら、少しづつ少しづつ、成長していったように思う。
選考会は長く、厳しかった。
選考会の成績はよくても、大きな大会での戦歴が振るわなければ決め手にかける。欲しかった大きな大会でのタイトル、インハイ全国大会への切符をかけた「当てれば次が、はずしたら脱落」という射詰め競技では、応援する私も無意識で息を詰め、彼女の矢が的に中たる音がした瞬間、大きな溜息とともに涙があふれたものだった。
弓道には個人戦と団体戦がある。国体は、団体三名一組で、チーム東京だ。
順番に弓をひくのだが、先頭から大前(おおまえ)・中(なか)・落(おち)というポジション名がある。
お嬢は切り込み隊長の、大前として選出された。
競技はふたつある。近的と、遠的。
28メートル先においた36センチの的に、与えられた一人四本中何本矢を中てるかを競う近的と、60メートル先に1メートルの的を置き、真ん中に近い方から高得点の合計点を競う遠的である。
勝負に勝つために、まずは、己に勝たなければならない。
寝起きの悪い彼女が、この夏も、早朝から休みなく国体の練習に参加し、部活で弓を引き、雨の日には自主練で公共の弓道場に出かけていく。
昨日は都個人選手権の女子の部だった。800人が4射づつというのもなかなか圧巻だが、我が子だけを待つと苦痛でも「うちの選手」とともに戦うとなると、9名全員の出番を気にかけて待ち遠しく、デビュー戦の一年生、よく知る同級生の二年生、共に手に汗握りつつ仲良しママ友と一緒の観戦だったので、とても楽しかった。
「うちの部」は創設8年なので、部員数も少なく実績も浅い。だが、指導者のよさで、全員素晴らしい成果を上げている。
だが、結果の追求は正直、私にとっては二の次でもある。
弓を引けるようになるまでの精進と、道場で4本の矢に懸ける、すさまじいまでの集中と緊張感こそが観戦の醍醐味に思えるからだ。
最初は待ち時間が退屈で、大声で応援もできず、出番は五分だけ、対戦相手は横に並んでいて、相手の出方は関係なくただ自分との戦いを見守るばかり・・・と、馴染めないでいたが、今や、あのシンプルな競技性と凛とした空気に対してやみつきになっている。
チーム東京は、全員入賞して関東大会に出場することになった。
同じ学校の仲間も一緒に関東大会に出場することが決まった。灼熱や酷寒や嵐の日には成績がいいのが、お嬢の学校の弓道部の特徴だ。逆境に強いのだ。勝負は、時の運もある。だが、間違いなく弓道を志した選手たちは、勝ち負けではない強さを身につけ、己に克つ力を半端なく蓄えている。
青春時代に弓道をやっているって、そりゃあ素晴らしい人だ!と本気で思う。私の仲の良い友人にも弓道部出身が何名かいるが、全員一本筋の通った、かっこいい人達ばかりだ。
こんなかっこいい競技がもっと身近になったらいいなあと、今は思う。
だから、この秋の東京国体を機に弓道人口が増えたらいいなとも思う。
見たことのない世界を知る、足がかりになるかもしれない。
お嬢のおかげで、私は灼熱も酷寒も悔しさも想像だけの努力なしに弓道家の疑似体験ができている。
応援することで、彼女の栄光に浴することもできる。
インターハイ、国体。全国制覇の夢。
それは私の知らない世界、見たことのない風景だった。
彼女は自分の頑張りで、私に夢の景色を見せてくれようとしている。
「お前を国体に出してやる」と陸上部にスカウトされて練習の厳しさにチャレンジする前に逃げたヘタレの私には、一生感じることのできない風景だ。
私には、彼女と同じ位置からの景色は見えない。
私が感じる風は、彼女越しの風だ。
私の見たことのない風景を見ている彼女を想像して、よかったねと思う。
それが、私の見る風景なのだと思う。
私が彼女に成り代わって語ることはできないが、しかしそれでも、応援する場所からみえるこの風景もまた、見たことのない風景だから、案外おもしろい。もう、それで十分、面白いのだ。