もっとも、お嬢の場合は部活に邁進していたから、テストが終わると家庭学習よりはもう午後から学校という感覚だった。
今日は小僧が学初の期末終了後の「家庭学習日」というお休みをもらった。
今、お友達と11年ぶりの東京ディズニーランドに出かけている。
小僧13歳。初めて行く、と言ってもいいと思う。
前日の準備も万全で、今朝はいつもの様にラジオ基礎英語1を聞いた後、すみやかににこやかに出かけていった。
体調不良が続いている私は、今日の予定がキャンセルになっていたので、そのまま初めて「あまちゃん」をオンタイムで見ないで、二度寝をした。
目覚ましや不愉快な暑さよるものではない目覚めって、なんて爽快なんでしょう。
いままで遠慮がちに二度寝をするときには風の抜ける小僧の部屋でうたた寝程度にし、クーラーをかけていなかったけれど、快適な室温で自分の布団で眠る二度寝は、なんて心地がいいのでしょう。
睡眠が足りているって、大事なことなんだなあと実感。
張り切ってストレッチ。
おお、久しぶりにみなぎる元気。
さて起きようかなと思ったら、同じ部屋で寝ていた娘が涙目になっている。
「おかあさん、今日はいつもの時間に起こしてねっていったじゃない・・・」
完全な遅刻だった。
そうか、彼女は今日、家庭学習日ではなかったのね。
いやあ申し訳ないことをしちゃったなあ。
お嬢はセンター入試を考えてこの夏、学校の夏期講習に申し込んでいる。(私学はこのへんが充実している)。
高校1年生の時に、部活を通して他校の三年生との交流があり、大学受験の準備というか、少なくとも意識だけは早くから高く保てていると思う。
しかし、弓道の強い国立というと東大か一橋と聞いて、親である私がビビり、顧問や先輩、担任とも話して、大学弓道を考えるならスポーツ推薦もアリなのではないかと思うようになっていった。
そうなってくると大事なのは、学力だけでなく、内申書に記載される生活態度。遅刻早退欠席をしない。ということだ。
・・・突然、超難関となる。
お嬢の学校は単位制だし、実に自由主義だ。
しかし自由とは与えられるのではなく勝ち取るものであって、その分自己責任が厳しく問われるシステムになっている。
わかりやすいところでは、やる気のないものを救う措置はない。だから、一分でも遅刻すれば遅刻は遅刻だし、その遅刻は二回で容赦なく欠席。欠席は成績の如何にかかわらず年間7回で単位を与えられない。・・・と、親は脅かされている。
全国模試と定期試験結果を見比べると、模試の結果のほうがはるかに明るい希望に思える。
弓道は一射絶命、ここ一番に命を賭ける競技であり、お嬢は一発試験に強いタイプなのかもしれないと思うと、スポーツ推薦とかAOは資質的にどうなのよとも思う。
まあ、自分の進路は自分で考えたらいいと思っているので、彼女の決定に口出しする気は全くない。
だが、今回大きな大会で注目されれば大学から声がかかることもある、親がどこまでできるのか、親としてはどういう進路の希望があるのかだけは、スタンスを固めておいたほうがいいと弓道のOBさんから進言されて、両方に可能性を残すと決めて以来、とりあえず遅刻だけはさせまいと頑張ってきた。つもりだった。気持ちだけは。
・・・ごめん。お嬢。
ところで、小僧の学校で「家庭学習日、とありますが、家庭で学習していなくても大丈夫ですか」と質問した保護者がいた。
学年主任はちょっと惚れそうになるぐらい素敵なユーモア肉体派なのだが、闊達に笑って、
「大丈夫です。どこかに出かけることも学習ですから。うんと困るようなことがあって自分で解決していけたら、それこそ、一番いい勉強なんです」
とおっしゃる。
勉強の成績が・・・このままでは順位が、クラスが、勉強法がわからなくて、両立ができなくて、時間がなくて、と余裕がない個別相談をしにいった私にも、
「今のところ補習に呼ばれていないのだから、ついていけているわけです。勉強しろなんて何も言わなくていいです。確かに今は宿題も少ないです。中学二年の二学期までは、たくさん遊んで遊んで、もう遊ばなくてもいいやと思うぐらい遊ばせて下さい。ゲームでも漫画でも、どこかに行くのも、大歓迎です。中学二年の三学期から、大学受験に向けてやる気を起こさせるギアを入れていきます。自分でやる気になった生徒は強いですよ。任せて下さい」
と褐色の爽やかな笑顔で言われて、そうかお任せすればいいんだ・・・と、ストンと安心してしまった。
「福助(仮名)はサッカーも頑張っているんだし、それは全面的に応援していますから。仮に、万一ですよ、このままクラブチームで結果がでなくても、彼なら勉強で◯◯大学に入って、サッカーをやればいいんです。大丈夫です、そういう卒業生もいますから」
福助は、先生とクラスメイトに恵まれる強運なのだが、それは幸い中学でも続いている。
英語は絶対にダメ、大嫌い、もう一生海外になんか行かないから英語なんかやる必要はない、と言いながらアルファベットが書けないまま小学校を卒業し、入学前春休みの宿題ドリルを見て本気でヤバイと思っていたのに、今はなんとかついていけている。
先生が魔法をかけてくださったおかげだ。
英語の授業数がやたらに多いのも忘れる間がなくてよかったのかもしれないし、娘の学校のように帰国子女率が高い場所とは違って一斉にスタートという感覚も小僧には好都合だった。
何より、いい点をとった時の英語科の先生の褒め上手さといったら。
さらに、爽やかでにこやかなうっちゃん似の担任は、
「お前はサッカーで時間がないのだから良い科目だけで勝負すればいい。英語はいい点がとれている。英語だけは時間が必要だから、時間を作る工夫が大事だな。他の科目は今のまま授業をしっかり受ければ十分、焦らなくていい。お前がこのクラスにいないと困るんだからな、がんばってくれよ」
とサラリと道を示してくださって、私がしびれた。
お前がいないと困る。
その言葉は、人が人たるために最も大切な言葉のひとつだ。
ああもう、こんなふうにクラクラする言葉を、さりげなくしかし毎日たっぷり浴びせられていたら、そりゃああのサッカー馬鹿小僧も勝手に勉強しだすわ。と、しみじみ思う。
中間では勉強の仕方がわからなかったが、期末は自発的に一週間クラブを休んで単語カードにみっちり準備をした。往復のダラダラ長い満員電車の時間を活用しはじめたのだと思う。
学校見学に行くまでは全く知らなかったが、一目見て、小僧がここだと受験して、合格させてもらえて。
毎日、楽しくて仕方ないようで。
休みの日には、一緒にTDLに行くお友達もできて。
小僧が嬉しそうにしていて、私もうれしい。
去年の冬からこっち、私はずっとサッカーママとして複雑な想いを抱えっぱなしだった。
12歳のセレクション事情は正直、厳しい。
部活サッカーなら受験とセレクションが、クラブサッカーならセンター入試など比にならない倍率で準備に準備を重ねてきた選手たちがしのぎを削りあう。
生半可な気持ちでは最初から結果が出せないし、死力を尽くしてさえJ下部のようなクラブチームなら最終選考に残るのはほんの少数だ。
最後の合格通知をつかむかどうかは紙一重の才能の見極めであって、有名無名を問わず、痛みを恐れずにチャレンジした者すべてが日本サッカー界の実力の底上げに貢献しているのだといっていいとすら思う。
少年サッカーの応援に夢中だった頃には、12歳の通過儀礼がこんなものだとは知らなかった。
「自分がそのチームに必要か、どうか」
存在のすべてを賭けて挑む12歳の姿は、神々しくさえある。
我が子だけでなく、我が同様に思う大切な選手たちの痛みを思っては、苦しい日々を過ごした。それでも私が想像する痛みなどきっと比ではないほどの苦しみをわずか12歳が背負っているのだよなあと・・・想像をループで繰り返しては、疲弊した。
選手たちは、仲の良い選手と同じチームではなくなる苦しみを必ず経験する。
そして実力を認識し、覚悟を胸に、それぞれがそれぞれのU13に所属していく。
私の気持ちを整理して、さあ新しい学校、新しい境遇に慣れて、新しいチームを応援しましょと思っていたら、想像していた世界は甘すぎたとわかった。
私には、J下部でなくともクラブチームというものは「本気で戦う」集団なのだという認識がなさすぎたのだった。
すなわち、機会均等という概念は全く存在しないということ。
そのゲームに必要とされている選手か否か。
ここが、公平だとか、教育心理学だとかが関与する学校教育とは一線を画す部分だった。
チャンスは公平かもしれないが、その結果に対してはシビアな評定がくだされる。頑張っている、とか、一生懸命というのは最低限当然なことで、結果が全てなのだと思う。
結果、使われなくなればその焦りはプレーにも出てくる、だからますますパフォーマンスが悪くなる、その悪循環を断ち切る賢さと強さがない限り、リザーブはリザーブだという世界。仲良しサッカーはとっくに終わっていた。
もちろん監督は鬼ではない。鬼だったとしても気さくな方よ・・・とあまちゃんの太巻さんのセリフでお茶を濁す気もないが、選手として大切なことを徹底的に叩きこんでくださっているのはアスリートを指導する上で当然だと思う。
友達だった選抜の選手が一軍で活躍しているのをベンチで見続けている小僧を、見続けている「親」の気持ちは、監督には関係ないのである。
チームメイトでありながらもライバルという関係も、おめでたい私は想像していなかった。
救いなのは、私の憂いなどどこ吹く風で、小僧は何よりもサッカーが好きで、練習は楽しくて仕方ないといっていること。
だからまあ、何も心配することはないのもわかっている。
競技を通じた男同士の交流から学ぶ成長には計り知れないものもあるのだろうから、チームという居場所があることもいいことだと思う。
問題は小僧ではない、ヘタレな私なの。
その厳しい世界に、やはりまだ戸惑ってしまうのである。
早くも知り合いが、全日本の青いユニフォームを着る可能性があると聞いて、そうか、13歳のサッカー小僧は、もうそういう世代なんだと改めて思う。
中学生になって、わずか三ヶ月。
お嬢が弓道を始めて、やっと弓を引けるようになるかならないかの時期だ。
中学部活だった私は、まだバットもグローブもほとんど持つことなく、灼熱のグラウンドで玉拾いとランニングと筋トレばかりさせられていた頃。
私は未熟な親だから、やっと痛みを整理してのんびり構えていた自分への焦燥と後悔から始まって、恐縮、失意、嫉妬、絶望、苦悩など、うまく処理しきれない感情が少し遅れて押し寄せてきていて、困っている。
お嬢の弓道での存在感と対比すると、光と影のような小僧の存在感に、勝手に胸を痛めている。子どもの競技を通じて、こんな精神修行が待っていたのかと驚いては、もうどうしていいかわからなくなることも多くある。
と、ここまで時間をかけて言葉を紡いできて、はたと気づいたことがあった。
親って、そんなもんかもしれない。
子どもがうまくいけばうれしい。
子どもがうまくいかなければ切ない。
それはきっと、寝がえりした、座った! の時から変わらないような気がする。
子どもがうんちをしていれば、いっしょになって力むのだ。
試合だ、受験だ、セレクションだ、あるいはオーディションだ、選抜試験だ、審査だ、・・・レベルが違っても、隣の子が立った、歩いた。さあ、小僧、立てよ、歩けよ!という気持ちがはやるのと同じ場所が、刺激されているだけなのかもしれない。
早く立たなかろうが、早く歩かなかろうが、幸せのカタチはある。
ということを、すでに知っていてなお、私は同じ場所をくるくる回っているのかもしれない。
もううんちを一緒に力む必要がないということも当然わかっているが、ついうっかり力んでしまうのだろう。
成長しなきゃいけないのは、私なんだよな。
「お前がいないと困る」という最たる場所である家庭を、居心地のいいものにしておくことが私の使命。
あとは、もう子どもが勝手に、自分が必要とされる者になっていくか、必要とされる場所を求めていくしか、ないんだよな。
幸運にもそういう学校と出会ってしまって、愛情をたっぷり降り注がれていたからそれをただありがたがっていたけれども、いい出会いをより良くするためには、努力も必要なんだ。
リップサービスだけでなく、クラスが本当に小僧を必要としてくれるだけの頑張りをみせていたのなら、ちょっと小僧を褒めてあげなければいけないかもしれない。
必要とされる者。
必要とされる場所。
以前も、こんな感じのことを書いた気がするけれども。
今日は家庭学習日。
チームの練習はお休み。
普通の中学生として、お友達との楽しく貴重な友情を育む、最も大事な必修課題を学ぶ日だ。楽しいといいね。小僧。