中学生・鈴木

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中学1年生の部活、ソフトボール部に入部した28人の新人部員たちは、毎日玉拾いが基本だった。

小僧の体育祭、運動以外に取り柄がなく、久しぶりの主役で輝く小僧を見ながら、私の中学時代を思い出していた。
部活は日曜日を除く毎日二時間。
その後の自主練で、毎日三キロ走って、毎日腹筋100回して、毎日素振りして手にマメを作って、帰宅すると牛乳を紙パックのまま飲んで、制服姿のまま居間で爆睡して、ご飯を食べてお風呂に入ってベッドに倒れ込んでいた。
勉強はやり方が分からなかったし、親も勉強しろとは言わなかったし、授業を聞いていればわからないことはなかったので、やり方がわかる部活だけに邁進したんだと思う。
先輩が推薦するトレーニングは、階段昇降もテニスボールを握って握力を鍛えるのも、「ドカベン」に出ていた電車に乗って駅名を呼んで動体視力を鍛える、みたいなことまで馬鹿正直に全部実行した。

毎朝、全身の筋肉痛と闘いながら起きる。
日曜日は休養だった。どこにも行かずに横になって本を読んで昼寝をして過ごした。
私は偏頭痛持ちだったから、発作が起きれば不定期に学校を欠席することになる。その時に遅れをとりたくなくて、多分人の何倍も努力していたんだと思う。

その努力の方向を勉強に向けていればよかったが、「わからない」というのは何がわからないのかわからない、という状態の子どもだったから、親も油断していたのだと思う。
しかし肝心の授業に出られなくなれば、どこがわからないのかわからないほどに、なにもかもわからなくなっていく恐怖と対峙して、......それはある朝目覚めたら世界が変わっているほどに、本当にとてつもない恐怖だった......私の揚々たる中学時代は暗雲立ち込めていく。

リレーの出走前、小僧の名前のコールが起こり、小僧はそれを笑顔でなだめた。
みんなの期待に応えて結果も出し、体育委員としては放課後残って準備を続け、当日は5時起きして裏方で走り回り、まさに八面六臂の体育祭だった。
痛めた足の痛みに気づいたのは全部終了して帰る時だから、どれほど集中していたのか。

中1の体育祭、私は大会新記録を出した。
あの晴れがましい表彰の記憶は、その後の自分を支えたように思う。
体調が崩れて休みがちになっても、勉強は友だちのノートを借りて、元気な日には集中してトレーニングをした。
小僧の体育祭は、小僧とにって最高に頑張れた場所だった。
この先の彼を支える礎にかればいいと思いながら、シャッターを切っていた。

遡る意識。私の中学時代は、二年の時に大きく陥落していく。
二年生のはじめまでは部活でもスターティングメンバーだった。
新人戦では、攻守に活躍した。
しかし、どんなに努力してベースランニングや飛距離、遠投が部員一位だろうと、スイッチヒッターでバントは自在だろうと、練習を欠席する健康管理のできない選手はチームプレイには不要という空気が流れ、ある日の練習で、三番目の捕手に降格していた。
新人育成の名の下、ナンバー3のピッチャーとキャッチボールも許されなくなり、一年生のピッチャーにウィンドミルのフォームや、ゲーム中の配球を指導するのがメインの活動になった。
先の希望がなければ、地道な自主トレも、なんとなくサボりがちになる。
せめて他の選手と違うことを、と、スコアブックを練習した。テレビでプロ野球を見ながらスコアをつけた。流れがわかってくると、作戦もわかってくる。ライバル校のピッチャーの特徴を分析してノートにまとめた。
けれど、監督はそれを評価しなかった。練習試合でどんなにいい試合結果を残しても、私を使おうとはしなかった。
公式戦で私はスコアラーとしてベンチに入り、時にコーチャーズボックスに立つことはあっても、試合に出ることはなく、私の情熱が枯れていくのを止めることができない、奇妙な背反にもどかしさを感じていた。

教室はわけのわからない時間が流れ、部活は私の居場所のない空気。
私に偏頭痛というハンディーキャップがある限り、私の未来はないのだ、良くも悪くも長生きはできないだろうから、それもまた天の意志なのかと思うことが増えていく。

スカウトしてくれた陸上部は、すでにジュニア国体に選手を送り込み、今さら移籍することはできなかった。
お前を美大に入れたいと熱心に誘ってくださった美術部の顧問の女先生も、監督に話をつけてくれることはなかった。
中二の冬、盲腸の手術で入院中、生徒会選挙に祀り上げられて同情票で生徒会のメンバーになり、そちらの活動を口実に部活から遠ざかった。生徒会の仲間は私にとてもやさしかった。
中学三年に進級して、私に始めた怪しい治療だの祈祷だので辟易としていたところに家庭内が離婚問題で揺れ、私の偏頭痛の頻度が増して、頭痛が収まってもいよいよ学校に行かなくなった。
家は書道塾だったため幸い名作系の本だけは大量にあったから、ジュブナイルから文豪ものから漫画、自宅の本棚からはなぜかポルノまがいのサスペンスシリーズまで、まともな中学生が費やすべき時間をまともなことに費やさずに、しかし現実から逃避するように布団にくるまって一心不乱に本ばかり読んで過ごし、高校進学は諦めると学校には申し入れて、ただただ目の前の「絶望」に飲み込まれないようにするだけで精一杯だった。
しかし、私はサバイブしたかったのだと思う。
私の人生を取り戻したかったし、私の人生を諦めたくはなかったのだと思う。
私は、ではなく、それは普遍的に。
駄目だ、と気力がなくなっているのは、単に気力だけの問題なのだ。
簡単に人生を諦められるわけがない。
人は誰だって安全で安心して暮らし、自分は認められたいと思い、誰かの役にだって立ちたいと思うものなのだ。当時の私だけではなく。
中三の夏、みんなが夏期講習に行く時に、国語の先生と体育の担任が、私を山小屋に連れて行ってくれた。国語の授業で扱った教材が穂高の山小屋だった。私がその場所を教えてくれ、ぜひ行ってみたいと申し出て、担任と相談して連れて行ってくれることになったのだった。
山小屋で巡りあう大人たちはみな不思議な人達ばかりで、山小屋でのサバイバルは強烈で新鮮で、おそらく「価値観の多様化」を目の当たりにした私は、三週間後に大学生とともに山を降りる。
具体的な答えはまだなかったが、絶望がぱっくり口を開けて待っているなら、戦えばいい。いよいよ戦えなければ、逃げればいい。という明確な方向を掴んでの下山だった。
夏以降も、学校には週に一度の保健室登校が続いたが、自宅の書棚からではなく自らの意志で図書館で本を借りまくるようになる。
自分の手に人生を引き戻すんだ!
離婚がどうしようと、両親がいなくなったら一人で生きていけばいいのだ、という案外簡単な決意は、それまでもいろいろな書物に書かれていたはずなのに、自分で気づかなければ金言も役には立たないということに気づいた時期でもあった。
だからこそ、自分で気づかなければ。自分でやりたいと思わなければ。自分で、全部自分で。

小僧は、今、サッカーならベンチに座っている。勉強はやっと平均点をスレスレで上回る。
彼のパッとしない毎日に干渉しては一喜一憂していたが、彼は私の息子じゃないか、と当時の重苦しく、決して思い出したくなかった思い出を紐解きながら、私は気持ちが軽くなって行くのを感じた。
大丈夫だ、彼はやれる。
もう私の関わりなど、とっくに不要なのだ。ただ、私は安心で安全な環境を提供すればいい。
週末の体育祭の結果も彼を支えるだろうが、どんな困難でも、「サバイバル」モードにスイッチが入れば、なんだって自分でやれるはずだ。
中学生・鈴木ゆう子はもういない。
中学生・鈴木福助(仮名)に自分を投影して、アレコレうるさく行ったところで、中学生・鈴木ゆう子は取り返せない。
彼は彼の人生を、きっと彼自身で切り開く。まだ中学1年生、私は球拾いをしていたじゃないか。
ただ見守る。
それが親・鈴木の仕事なのだと思う。