小僧の受験

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もう受験はイヤだ、と言い出した小僧なのに、諦めきれない私は某個人教師の塾から資料を取り寄せてみた。
ところがこれが、すごかった。
公式のノウハウ本は薄くコンパクトによくまとまっているのだが、何しろ個人の感想が厚い。
そして、熱い。個人の感想が束になって迫り来るのである。

こういうところに預けたら、確かに学力も伸びるんだろうなあと思う。
小僧は記憶力だけは悲しいほどいいのに、学問に対する興味が絶望的に抱けない。
サッカー番組は英語で聞くことを厭わないのに、ABCをまともに書こうとはしない。
「そういうもの」なのだから仕方ない。何か衝撃的な感動に出会わなければ、彼は変わりようがなく、そしてそのうちズルズルと学校の勉強から落ちこぼれていくような気がする。

好きじゃないものを好きにするのは、どんな腕っこきの塾講師でもどうしようもない気がする。
それが何万円の会席料理のコースを一緒に食べるのだとしても、海外旅行でスイートルームに泊まるのだとしても、キライな男性と一緒なら死んでもイヤなタイプの私には、小僧の勉強が嫌いという気持ちもわからないでもないと思う。

私は勉強のできる子どもではなかったのかもしれないが、勉強は大好きな子だった。
本を開けばそこに異次元の世界が広がっていて、それが化学だろうと文学だろうと、同じように面白かった。・・・数学に関しては、挫折したけれども。
結構勉強している自分が好きだったから、数学の宿題以外はなんでも歓迎だった。
新しいことを知る、というのがたまらなく好きだった。脳みそが軽くムズムズする感じがすごく。
頭がフル回転するときにはちょっと雑音がうるさいのだけれど、集中すると雑音を忘れるんだよなあ。
本を読んでいて夜明かしするのが日常茶飯事という子どもだったし、未だに何かを読みながら眠りにつく習慣が消えず、しょっちゅうiPadに鼻を殴られている。
そんな感じで意外にも私は読書が一番身近な趣味だった。
けれど、体がなまじ頑健なのと内省的な謙虚さが欠落していたため、実体験でも好奇心旺盛に冒険を繰り返し、決して勉強のデキる子にはなれなかった。
中途半場な自分。学歴もなく、大した資格もなく、職歴だって15年程度であとは主婦と母親である。
だけど、私はそんな自分を案外気に入っているのだ。
どうでもいい雑学は、空想の中を自由に飛べる貴重な翼だ。やってみて得た嬉しかったり楽しかったり怖かったり苦しかったり腹がたったり落ち込んだりの経験値は、私を私たらしめる、記憶の宝物だ。
人が見たら大したことないかもしれない私はその内側に、広く深い世界を持っている。
18で家を出た時、誰にも邪魔されずに、争いに巻き込まれずに、本が読めるんだなあと嬉しかった。
相方と出会って何が面白かったといって、彼は私の持っていない視点からものを見ることだった。私は新しい目を手に入れて、頭の中がムズムズする感じを、とても気持ちいいと思った。そうやって18年間一緒にいて、未だに全く飽きないのだから、これは自分の先見の明を褒めたいと思う。
彼は私を制御しようとしない。
好きな本を読んでいれば、静かに邪魔せず、いつまでも読んでいればいいんじゃないというスタンスが心地いい。
ゆるゆるといえばゆるゆるな夫婦。他人だった人と家族になる以上少しの我慢は必要だが、限界は超えない。そして、その「無理ハードル」はお互いものすごく低いから、互いに期待せずにいる。結果、ゆるゆると暮らしている。
ギュッと抱きしめられたい何かして欲しいタイプや、ずっとくっついていたい何かしてあげたいタイプには、おそらく全くモテナイ相方だ。お互いがお互いを見つめ合うよりも、別のものをたくさん見て持ち寄る方が楽しい。
強要も強制もしない。そんなゆるゆるの心地よさを知っているから、子どもにも「これをしなさい」「あれをしなさい」とスケジュール管理して強制することが、私たちはあまりうまくないのだと思う。

熱い厚い家庭教師会への感想文を読んでいて、きちんとした社会人のあり方と考え方のようなものを学んだ。
学んだけれども、結局その真髄は私には出来ないという結論だけがはっきりした。
私には学歴バンザイ!な考え方はどうしてもなじまないし、子どもが行きたい学校に一生懸命がんばって合格する姿には感動もするのだが、小僧は頑張りたくないといっているのだ、行きたいところなどないのだ、その果てに勝利も感動も、あろうはずがない。
伴走するだけの体力と気力もないが、伴走以前に私が選手以上に走って、後から選手がついて来るようなのでは困る。
つまりこれは、あきらめろという啓示なのだなあとありがたくその資料をしまった。

小僧だって、好きな事をするのが幸せだ。
サッカーに打ち込むならこの学校がいいんじゃないかとか、将来サッカーだけではなく勉強も必要になった時にここならいいんじゃないかとか、ちょっと未来を見通せる大人の知恵で選択肢を増やしてみたけれども、未来は小僧次第でどうとでもなる。
サッカーを楽しみたいんだ。という、小僧は正しい。
彼のサッカーは私の読書なのかもしれず、そんな楽しいことを止めて無理やり公式を覚えろと言われてもきっと不愉快極まりないんだろう。
勉強する環境が整えばもっともっと勉強が楽しかったに違いないと思うのは、幼ない当時の私であって、小僧は整った環境であっても勉強が嫌いなのだ。サッカーをやりたいのだ。
サッカーができなくなった時にどうするのかなどという命題は、何も悪いことをしていないのに不吉な呪いにしか聞こえないだろう。
「サッカーできなくなんかならないもん、だって俺、サッカーが好きだから」。
と言う小僧が容易に想像できてしまう。

それでいいんだろうな。だって、好きだから。それが一番いいんだろうな。
というわけで、過去問も3ページぐらいで挫折。
近視眼的に今の楽を選ぶなんてバカだ、あと三年後の高校受験で苦難の道を行くようにしか思えないけれと゜・・・それはそれでありなんだろうな。