後編

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とりあえず誰かこないか待ってみる、夜明けのロビー。
風呂場とコインランドリーで湿気がひどいが、暑さなど感じない。
何時に待ち合わせだったっけ。腕時計を見ると、まだ第一試合まで五時間近く猶予がある。
しかし、間に合わなかった時には駅前のサッカーママ友が宿泊する高級ホテルまで走らなければならない。すっぴんで、サンダルで、ノーブラのくたびれたロングTシャツ一枚で、すでに汗だくで。
かなり素で生きている私だが、さすがにこんな姿はサッカーママに見せたことはない。
それ以前に、こんな姿で走っていて、捕まったらどうしようと思う。身分を証明するものが何もない。すでに、私ですら私が誰なのかわからない形相に違いない。
鏡を確認しようにも、しまった、目が見えないじゃないか。私の視力は0.03である。
とにかくこの危機を誰かに知らせないと。
誰に? アルソックに? なんか器物破損してみたら、世界一強い女・レスラーの吉田さんが来てくれて目からビームを・・・
違う。私が捕まるわ。
警察に? 私の部屋に死体が! とかいったら鍵を開けてくれるかも。
でも、死体がない事実をどうする? これまた捕まるわ。
電話は管理人に、というのが正解だろう。
っていうか、管理人はどこ?・・・常駐していないんだね。
壁に貼ってある情報を徹底的に読む。メガネがないので、壁にくっついて読む。歯ブラシを片手に。もう、やってることがすごく怪しい。
するとエレベータが開いて、小太りな労務者風の男性がきた。
「助けてくださいぃぃぃぃ」
いきなり彼がものすごく怖いものを見た顔になっていくのを見た。でも気にしていられない、逃げられては困るのだ。
携帯を借りて、管理人に電話をかけないと。
事情を説明する。
「鍵? どれ、貸してみ」
で、彼はご厚意から慣れた手つきでペーパーキーをガシガシ入れ、さらによれよれにしてしまうのだった。
ひぇー。
「水、ついちゃってんじゃねーの? ここ、よれてる。ドライヤーで乾かしてみれば」
で、彼はご厚意から鍵を持って男子風呂に入り、ドライヤーをかけてさらによれよれに磨きをかけたのだった。
ひぇー。ひぇー。
これで、どこから見ても状況証拠は真っ黒になった。
そこにもう一人、お仲間の作業着を着たスキンヘッドのお兄さんが来た。
「あー、上に三年位住んでいるヤマウチさん(当然仮名)がいるから、起こしてみんべ」
という。いやあの、住んでいるだけではどうしようもないと思うので、とわたわ小さく断ると、
「まあ、ねえさん。落ち着きな。・・・タバコでも吸うか」
と、これまたご厚意でタバコを勧められる。スイマセン、吸いません。
「なんか、管理人を呼ぶと一万円とられるって。部屋はどこだい、窓から入れねぇかなあ」
と、ご厚意で外を見てきてくださるのだが、そんなことで入れるセキュリティーの甘さだったらすごく怖いと思う。
一瞬、夢見たけど。
現実的には、呼び出し代金、一回一万円がちらつく。 
鍵はそちらに不備があるのではないか? と強く訴えるとしても、ひとまず一万円支払った上で改めての話し合いということになるんだろうか。私のペーパーキーはくたびれている。どう見ても、私が悪いようにしか見えない。払わないなどと言って、開けてくれなかったらアウトである。
一万円・・・そんな大金、ない。と、泣きそうになる。私の預金通帳には今、750円ぐらいしか入っていない。
でも背に腹は代えられないよな。第一試合に間に合いたい。そのために来たんだから。たかが遠征試合がプレミアムチケットになるが、とりあえずこのわびしい現状を打開できるならいくらまで支払えるだろうと考える。
ATMはどこだ、ここ、コンビニからもものすごーく遠い。
っていうか、一万円お支払いした上に二泊分払うのなら、サッカーママたちが泊まっているいいホテルに泊まって、ルームサービスが頼めたんじゃないかしら。マッサージだっていけたかも。仮にインロックしてドアが開かない事態でも、フロントがにこやかに対応してくれるだろう。
頭の中を妄想が猛スピードで駆け抜けていく。いかん! 現実的に対応しないとね。
「誠に申し訳ないんですが、けけけ、携帯を貸していただけませんか」
そう、それがもっとも現実的な突破口。
目の前の一万円におじけづいていちゃいけないわ。
そして、彼はご厚意から、爽やかに最新型のスマホを貸してくれるのだった。待受は超美形なお嬢さんだったが、私はスマホが使えない。電話番号をいい、かけていただく。

受付に電話。→目の前の受付から、虚しく留守番電話が響き渡る音がした。
管理会社に電話。→定休日だという、社員の皆様には当然の権利かもしれない留守電を聞いて、ノーブラTシャツの何もない中年オンナは、正直ふざけんなと思う。
壁の告知を更に探す。
管理人の携帯番号があった。「いかなる事態にも一万円を申し受ける」と書かれている。
管理人に電話が通じた。あとは待つだけだ。
とりあえず一万円を覚悟して、スキンヘッドと小太りの紳士に丁重にお礼をいう。
外の方が涼しいからとドアを開けてくれたり、仕事に行かなければならないギリギリまでお付き合いくださった。
私がもう25年若かったら、惚れていたかもしれない。

管理人さんが見えるまでの長い長い長すぎるだろうよこら、という時間、私は「必ずトラブルは笑い話になる」と繰り返していた。
思いがけず優しい管理人さんの対応。旅の空のご厚意を思う。県民性なのかな、みんな実に優しかった。
渡る世間に鬼はなし。私の泊まった部屋は鬼門だったけどね。

翌日、早朝チェックアウトで急いでいた。
出かけにダウンコートを着てロビーでうずくまっている人を目の端でとらえ、寒いのかな?と一瞬思うが、急いで目的地に向かった。
帰宅後、どうにもあの巨大なおはぎのような、うずくまり人のことが気になった。
具合が悪かったのだろうか。
どう考えてみても、あの湿気のこもる暑いロビーが寒いわけがない。よほど高い熱でも・・・。
あ。そうか!
「インロックされた方は、このコートを着てお待ちください」と、玄関に下がっていたものだ、あれ。
つまり彼は、指示の通り、コートを着て待っていたのだ。
多分、管理人さんが来るまで小一時間も。着てろと言われて素直に着たのだ。生真面目に。
でも、あのコートはインロックしちゃってロビーで待たざるを得ない冬などに、凍死しないためにあるものなんじゃないかなあ。こんな暑い日の、罰ゲームのためにあるんじゃないと思うな。と思ったら、彼にはちょっと悪いけど、クスッとした。人はパニックだと、変なことをする。
そういう味わいも、閉めだされて全部壁情報を読んでいなければ気づかなかったことなんだよね。

教訓2 宿泊費は安ければ安いほど面白い冒険だ。
教訓3 でも、次は冒険じゃなくてもいいかもな。