気が気じゃない、という状態である。
誰にでもある、ちょっとしたハレ。
しかし、こういう時は危ない。
気持ちがどっかにイっちゃっているわけだから、周りに対しても自分に対しても、大変失礼なことをしかねない。
ティファールは同じ水を沸かすこと、三度目。
今、スイッチを入れたのに、私は牛乳をマグカップに注いで、パソコン前に来てしまった。
テレビのリモコンが見つからず、テレビはつきっぱなしになっている。
心身喪失状態というのが、少しだけ理解できる気がする。とりあえず、リアル知り合いの方、しばらくの間、非礼は無罪でお願いします。
あ、湯が沸いたが、どうすればいいのか。
小僧の誕生日である。
12歳なので、13年前に産んだということだ。
すごいなあ。十年、という単位がすごい。
そして、12歳にもなって、まだものすごーく可愛い、小生意気なところも含めて全部全部可愛い、というのも、すごいなあ。
彼にはぜーんぜん期待していないからで、期待したとしても彼の成果は彼のもの、私は手助けしているだけだし。というスタンスが、可愛さを保つ要因のひとつだと思う。
自分の分身だと思ったら、どうしたって評価も何もかも厳しくなるけど、授かって、預かって、ちゃんと育てないとね、というぐらいの気楽な心構えだと、こっちも楽なのだ。
それと、アレだね、出産の時の感動と高揚を思い出すと、結構な生意気ぶりも容易に許せてしまう気がする。
年に一度のお誕生日は、そういう確認作業なのかもしれないな。
ずーっとずっと以前、毎日新聞の読者投稿欄に投稿したとき、「生まれてくれてありがとう」という言葉を、「産んでくれてありがとう」と改ざんされて掲載されたことがあった。
もちろん、意図がまるで反対になるので、担当者にお電話をした。
その時の男性は、「生まれてくれてありがとう、などという表現は間違いであり、それが鈴木さんの感情であったとしても、一般的には産んでくれてありがとうが慣用句だから書き換えた」と言い切り、結構な口論になった末、私は掲載原稿料を受け取らなかったことがある。
雅子妃が「うまれてきてくれて、ありがとうという気持ち」と愛子さまについて語られて以来、その表現はポピュラーになった。愛子様ご誕生を謹んでお慶び申し上げつつ、私には雅子妃グッジョブ!という感情があったわ。
多分、あの男性にはわからなかったのだろうなあ。
想像力の欠落は、罪なのかそうでないのか。
彼自身、身近な子どもを「おお、頑張って生まれてきたんだな、ようこそ、この世界へ。生まれてきてくれて、ありがとう。ご苦労さん。重税が待っているかもしれないが、働け俺の、あるいは他人の子ども」というような感覚すら、抱いたことはなかったのだろう。それは子を持つ、持たないの差ではなく、想像力の問題だと思う。
いや、今考えると、
「かあちゃん、産んでくれてありがとうね」といつもいつも感謝しながら生きてきた孝行息子なのかもしれず、あの時の口論では私もそこまで思いが至らなかったなあと、自分の成長ぶりを祝いじゃおうと思う。
人は変わる。
時間とともに。
それが、好ましい方向に変わるといいな。
12歳はこの先、ぐんぐん成長するけれど、私も成長を止めないでいきたいな。
いくつになっても、成長は続くんだと思いながら、節目を祝いたいと思う。
さて、もう一度お湯を沸かして、今度こそコーヒーを飲もう。
・・・ああ、成長しないなあ。こういうとこ。