久我山の書店で、娘が楽しみにしている学年誌を買う。1000円の図書券を出すと450円、現金で、おつりがもらえる。「ぼくんち(全)」(西原理恵子著)550円を、「ア、これも」と、忘れていたかのように出す。またしても1000円の図書券で買う。おつりが現金でやってくる。
こうすれば、娘の入学祝いにもらった図書券で、肉が買える。
吉祥寺まで、電車で行く。駐車場代が惜しいからだったが、片道親子で180円、私は往復になるので合計300円、100円パーキングに10分止めて100円の方が安いじゃねーか。と電車の中で気づく。帰りのお迎えは車で行こう。
英語の日は、娘の帰りが遅い。お腹がすいてしまうのでホットドックを作りきっちり腹ごしらえさせたのだが、電車に乗って興奮したのか、のどが乾いてお腹がすいたと言う。家に帰れば握り飯も作れるのにと思いながら、ハンバーガー屋に入る。P子と福助、欠食児童のようにポテトとハンバーガーをむさぼり喰う。飲み物はあまぁぁぁいアイスミルクティーにして、二人でシェアさせる。ああこれだけあれば、三食分のおかずが買えるのに。と思いながら、私はセットのコーヒーを飲む。
P子を見送って、福助がパルコの本屋に行きたがったので、絵本の三冊も読んで帰ろうと思ったら、
「これ、くぅーだしゃい、しゅる」
と、英語の本を離さない。見本で出ている絵本の山には目もくれず、気に入ったアルファベットの本を持って帰ろうとする。最初は他人の目を気にして、「ほーら、今日は買わないよぉ。さ、返そうね」などと優しく言ってみたものの、抱え込んで「abc、欲しい欲しい」と泣かれると、困る。
それが、何とかレンジャーとか電車とかあんぱんまんとかなら、周りも「仕方ないわね」という目になろうが、ABCなのである。そんなのを欲しがる息子と、決して買い与えない母親。教育ママなのかそうでないのか、スタンスが謎である。まさか「貧乏」とは思うまい、貧乏人はパルコに行ってはいけなかったのだ。
「かーえーるーぞー、福助っ! くぉらっ」
と、脅してみる。そばに立っている、英会話教材売りが、明らかに妙なものを見る目で、私を見ている。「鴨? 鴨?」と彼の心の声が聞こえる。あっち側で中学受験用の本を手にとっていた教育熱心そうなおばさんは、わざわざ本棚を越えて見にきている。
「いやー、かえだないのー。くだしゃい、すんのー、じ・アーファベット、見るの」
と、絵本を抱いて座り込む。とにかく涙と鼻水がついたら売り物にならないので、ひったくる。
と、号泣が始まった。
今日は買わないと最初に念を押しておけば良かった。パルコに行けばたいてい駐車場代がわりに本を買う日常を知る福助に、今は貧乏だから本が買えないというのが理解できない。
「I want a book,this one ,please!!」
と、とうとう美しい英語で泣きおとしにかかる三歳児。タイの国旗のTシャツを着た由緒正しい日本の小僧。おむつもとれていない、まともに日本語がしゃべれない。なのに英語かい。私は一体、どんな早期教育マニアなんだ?
で、号泣が始まったときには、犬のしつけと一緒で、結局私はへたくそな英語でGo Home!と叫ぶことになる。英語で怒れば福助は言うことを聞く。買わない、約束していない、泣くな、帰るぞ、置いて行くから一人で生きて行け、と言うと、福助はあきらめた。
英語教材売りと目をあわせないようにして、エレベーターで逃げ帰る。とりあえず背中を差し出せば福助は無条件でおんぶをするので、そのまま担いで100円ショップに入った。私の靴擦れが痛くて、靴下が欲しかったからだ。
そこで福助はホットケーキミックスを発見し、目を輝かせ、これくーだしゃい、ご本いらないの、という。まだ、本をあきらめていなかったのかよと驚きつつも、「うーん、どうしようかなあ」ともったいをつけると、ちわわのような潤んだ瞳でじーっと見つめる。福助はホットケーキが大好きだ。お下がりのボーネルンドのマイキッチンで、毎日ニセホットケーキを焼いているほどに。娘のP子はお料理を作る真似などしたことがなかったのに、福助はいつもこわきに本かテニスボールかマイフライパンを抱えているのである。将来、何になるつもりだろう?
「よし、君がそこまで言うのなら……その粉を買おう。もう、清水の舞台からとびおりるつもりで、買っちゃおう。そして、なんと、明日、一緒にホットケーキを作ろうではないか」
と言ってみたら、失禁しそうなほど震える福助。満面の笑み。それはそれは幸せそうなのだった。いがぐりが跳ねて、大事な大事な粉を胸元に抱え、全身で幸せを訴えている子供の姿はいいものだ。わずか105円で見ているこっちが痛いぐらい切ない、息子の「幸せ」を手に入れてしまった。安かったかも。と、思う。
100円ショップを出てすぐ隣の店で靴下が87円で、「あ゛ー」と思ったが、福助の嬉しそうな歩き方ときっちり握られた手に揺れる白いビニール袋をみていたら、まあいいかと思えた。
帰宅後、そのまま箱を抱きしめて、福助は夕方寝に入った。これは夜中に起きるなあと思ったが、あんまりにも幸せそうな寝顔なので、私もついにこにこ笑いながら、そのままいつまでもいがぐり頭を撫でていた。福助はなぜか、いつも犬ころの匂いがする。
いよいよメインバンクの残高は3桁だ。おうちのお財布から1000円札が消えた。私のギャラが入っていた銀行でおろしたお金を、とりあえずおうちのお財布に入れた。
こんな気分のときに「ぼくんち」を読むと、一言一言がじんわりと心にしみる。生きて行こう。と、思う。愛について、考える。550円が、挫折した1200円のハリーポッター原語版よりずっと価値を持つ。
そして、深夜。
「パンケーク、つくるのぉぉぉー。おかあしゃん、ウェイカップ、おちてー、おちてよぉー」と、ホットケーキミックスの箱でばこばこ叩かれて起こされた。
「おい、バカ小僧、今は夜だ。黙って寝ろって。ケーキは明日、明日」
と寝ぼけて言った母の言葉に、納得が行かない福助。一眠りしてさっぱり、ホットケーキづくりが楽しみで朝まで待てない彼にとっては、今こそ、すでに明日なのだった。腹も減っていたのだろう。
「プローミシュ」
と、泣きそうな顔で言いやがる。うーん、約束は確かにやぶっちゃいけない、特に大人の事情でやぶっては絶対にいけないのだ。私がきちんと夕食を食べさせなかったのだ、私が明日作ろうと約束したのだ、もともと思わせぶりに書店に入り、本を買わずにごまかしたのは私なのだ。
私は寝ぼけ眼で、福助と一緒にホットケーキを焼いた。うーん、この105円、安かったのか。高かったのか。
福助はやっぱり、にこにこと幸せそうにホットケーキを食べていた。