という女が敵でした。
なんていうかさー、女を武器にしているようなタイプが長いこと苦手だったの。
すっごくかわいくて一見エロくないけど、よく見るとかなりエロい、小洒落たパンツとお揃いのブラをつけているようなタイプ、というか。
男子の前では軽く涙を見せたり、転んでみせちゃったりできる、みたいなね。
女子力の高いそういうのが、本当に嫌いでした。
だって、そういうのは、か弱そうに見えてたいていちゃーんといい男をかっさらっていくんだよ。猛禽並みにね。
そして、ねっとりしっかり手なづけて、割といい思いもして、決して手放さない。
今にして思えば、自分が絶対に到達できない境地だから、単にうらやましいだけの、強烈な嫉妬だったように思います。
ねっとりに対抗するには、竹を割ったようなサッパリ。
私は敵に勝利するために、人前で泣くことは恥、戦うために髪は常にひっつめ、台所に立つ時間に仕事をしてお金を稼ぎ、そのお金で自分をかっこ良く飾って、レストランで高級料理を食べさせてあげる女になりました。・・・って、だめ方向じゃーん!
主婦になったことで、しっかりと自分の弱さを見つめ直せたのは実に大きな成長だったね。
主婦としては赤点ギリギリだと自覚し、しかしどんなに向上心をもっても及第点に到達できる才能はなく、諦める力がしっかり培われた私。
嫉妬、というのは、手に届きそうで届かないから抱く感情で、絶対に手に届かない境地は畏怖な訳です。
子ども生むまでろくに包丁すら持ったことのない女というハンディは、なかなかに厳しいものでした。
手仕事の大事さ、倹約の美徳、料理は健康管理のためのマネジメント業務・・・。
生真面目でコツコツ。私は本当に、多くの主婦たちの偉大さを知ることになるわけで。
肉じゃがは、まずいより美味しい方がいいに決まってる。
そして本当にデキル主婦は、仕事をやってもデキルんだなあということをPTAで痛感していくのですが、これはまた別のお話。
で、問題はアップルパイです。
はい、この伏線はあとで出てきます。
私の敬愛するパーフェクト主婦、そして私が勝手に親友だと思い込んでいるあるママは、ものすごく手軽にパウンドケーキを作る人です。
栗が入っていたりする。
すっごく美味しそうだ。
そういうことを難なくやってしまうのね。
それは、もうなんか、狂おしいほどに憧れている世界ですが、私はホットケーキが限界だと己をよくよく知っています。
しかし何がすごいといって、お料理上手以上に、彼女は私に学歴や経済力がないことを全く気にせずにつきあってくれる器量がすごいと思うの。羨望のお家柄と高学歴なのに。
親しい同業者のHのがつんとした言葉が、二十代の私を突然救ってくれて以来(感謝・永遠に)、私の学歴コンプレックスはものすごくうっすらしたものになっている。
「話せば馬鹿か利口かすぐわかるよ。学歴がどうでも、五分の会話でわかるから」
これが、ツボだった。
この魔法の一言以来、私は同業者Hを見習って、言葉の力を鍛えようと思って生きてきたのだが、実は、この「パウンドケーキの君」も、かなりそういう救いの言葉をたっぷり蓄えていて、ツボにきゅっとくるタイプのママ友なのだった。
こういうのを知性という。
私はこういうママが欲しかった。
そして、こういうママになりたかった。
実業家の母ヨシコにそれを望むのはむしろ残酷だし、そんな母ヨシコに育てられた段階で望むべくもないのは承知している。
でも、そういう「理想像」のそばにいることはとても心地がいいなあと、私は彼女と会うたびに嬉しくなる気持ちを押さえきれずによく思う。
パウンドケーキの君のお子たちは、垂涎ものの出来の良さだ。
出来がいいのは遺伝だけではなく、おいしいものを食べさせ、しっかりと休ませ、心が安定する言葉がすぐそばにある育て方も大きいと思う。
ところで、アップルパイである。
うちの娘がアップルパイをごちそうになったというのだ。
最近仲良しになった別の学校のお友達の家に行ったとき、同じ学校の娘たちはコンビニの駄菓子を持ったらしいのだが、なんと出てきたのは焼きたてのアップルパイだった。
ちょうど焼いたところだから、どうぞ。
びっくりする娘たち。
同じ学校の娘の仲良しさんにはいないよ、そんなママ。多分。いるとしたら、ベーカリー経営者だよ。多分。
意外性がありすぎて、話を聞いていても、私にも「アップルパイを焼くママ」という位置がわからず、混乱する。
しかもそのアップルパイは、すっごく美味しかった!というのだから、本業は実はパティシエという線を疑いたい。
だって奥さん、アップルパイですよ。
アップルが、パイですよ。
うちの娘も小僧も、ケーキというものはケーキ屋さんで買う。ねじはねじ屋、スパイクはスパイク屋、墓石は墓石屋さんで買うように、アップルパイはパイ屋さんで買うものと思っていたはずだ。作っちゃうんだ・・・。作れるんだ、そういうものなんだ・・・。
「焼きたてのパイって、ものすっごい、美味しいんだよ〜!」
と娘の瞳は輝いていた。
今や、肉じゃがが得意という女は私の敵ではない。むしろ、師匠である。
そういう人が身近にいるなら、ぜひとも友達になりたい。
アップルパイは、私の大好物でもある。ぜひともご相伴にあずかりたい。
ただ、娘の三足千円の安物靴下が、アップルがパイして熱々なご邸宅の玄関マットを踏んだかと思うと申し訳ない気がする。
敷居が高すぎて、高飛び用の棒を用意する必要があるのではないかと思う。
果たして、私はそのママと友達になれるのか。どうか。
知らないタイプの人と知り合うのは、冒険である。
でも、そんなときに私は「パウンドケーキの君」ともちゃんとお友達になれているじゃないかと、自信をかすかに掘り起こし、わいてくる勇気が待てたのだ。
真に教養のある方なら、こんな私でもきっと許してくれる。
こんな私のそれなりにいいところを上手に見つけてくれる。
パウンドケーキだってアップルパイ同様、私は一生作ることがないだろうが、私は「パウンドケーキの君」についていきたい。
そうだった、私が好きになった人なら、相手がどう思うかはあんまり関係ない。というスタンスで友情を紡いできたのではなかったかと、新しい出会いにも、少し安心する。
でも。
子どもは、大きくなる。
大きくなって、世界がどんどん広がっている。
クラスメートや部活の友達は、親の顔も全部わかっていて、親同士の取り決めもしやすかった。
そもそも小学校は同じ地域の同じ文化圏、中学は私学というある意味同好の士が集まる場所を選び、弓一筋だったために弓道部は保護者も込みで、親戚のように親しくなっている。
けれど、高校に入ってから広がっていく彼女の独自の世界は、私が与り知らないおつきあいなのだった。
娘は弓道を通じてすでに全国に同志がいるし、東京都内の他校の弓道部には親しい仲間も少なくない。今は大学弓道の情報収集のため、他校出身の先輩にも連絡を取っているようだ。
私はその彼らの名前しか知らない。
アップルパイは私の大好物だったから異様に反応してしまったけれど、これからどんどんそういうことが増えていくのだろう。
そうやって、大げさに言えば異文化に触れ、違う世界を吸収していくのだろう。
もう、親はそこには立ち入れないのかもしれない、アップルパイやまだ見ぬ出会いに未練はあっても。
「パウンドケーキの君」は、どう子離れするかが今後の課題だと言っていた。そうか、そんな年なんだね。
そういえば、娘の大学の第一志望は、私が熱く薦める学校ではなかった。
大学弓道に進むのだからスポーツセレクションが最もよいと勧めていたのだが、何も知らないのに口出ししてもらちがあかない。
娘は、しっかり親離れを始めていた。
試験を受けるのは彼女自身。もともと習い事も、短期留学も、中学受験も、全部自分で決めて来たタイプなので、今更勉強を見てあげることもできないのだし、親は口出しせずにお金だけ出すのがいいんだろうなと思う。
わかっている。
彼女の人間関係も、彼女の進路も、彼女自身が一人で生きていくために大切な選択。その大事な選択だからこそ、自分ですべきのはよくよくわかっているのだが、そんな大事な選択なのに私は見守るしかないという立ち位置が、正直寂しい。
彼女のいるステージは、私の全く知らない世界になりつつある。
わかっている。一人では立つことも歩くこともできなかった幼子の延長という錯覚を押し付けてはならない。
自立は喜ばしくことほぐべきことだとわかりきっているぐらいにわかっているのだが、母親業に命をかけてきた私には、そろそろ迎える定年の準備に心が痛むのだ。
あーあ。
こんなときには、アップルパイでも買ってきましょうかね。
シャンペンと、またよく合うんだ。これが。
まだちょっと甘い、自立の味ですかね。