好不調の波があるとき、私はジェンダーを気にしつつもこの言葉を思い出す。好調な時を男どき、不調なときを女どきと呼ぶ。昔の人はそんな言葉をもっていた。あざなえる縄の如し、とかね。つまりはいいことの次は悪いこと、そういう時流には逆らえないって。
いい時、悪い時があることって、フツーに営みの中で脈々と続いているってことだよね。
関東大会、結果はまさかの予選敗退だった。
しかし実は、この「まさかの」こそが、私の驕りだったのだなあと反省している。
自主練の時のお嬢を見ている限り、はずさないし、思い通りに易易と中てているように見えた。
的中率も、記録も、タイトルも、自信をもっていえる。
だから、負けないんだと思っていた。
中てられる、必ず上位に食いむ。
そういう野心は、口にすると一見、傲慢な言葉になる。
しかしそうやって鼓舞でもしなければ、大会独自のガラスが張り付いたような空気と、一面に漂う緊張感に、簡単に飲み込まれてしまうのをわかっていたから、私は彼女の野心的な言葉にすがったのかもしれない。
観覧者であってすら、胃薬を投与して、息を詰めて臨む競技だ。
観覧者道というものがあるとすれば、経験を積んで成長することで、奮い立たせるような大口をたたかずとも自然に関われるようになるのだろうと思う。だが、私は怖かった。インハイで決勝まで進みながら入賞を逃したことも、都大会で一矢抜いて(一本失敗して)準優勝になったことも。
傲慢は、一瞬気持ちいい。てっとり早く荒ぶる心を整え、調子に乗るには、手軽で効果的。
でも、それがひとたび崩れた時に、必ず後で火の粉をかぶることになり、たいていは後悔することになる。
それをこんな齢で知ろうとは。
「大丈夫、必ず決勝に行く、だって(以下傲慢自主規制)」
とでも思っていないと、すぐにでも道場に向かう道を引き返したくなる。
弓道は結果ではなく、最高の弓を引いて納得の行く射だったかどうかが問われる精神性の高い競技なのに。
わかっていて、結果がほしい。そう思った瞬間に怖さが体を駆け巡る。
私はこう見えて、大変なヘタレなのである。
だから、今回のお嬢は確実に残ると信じたし、信じなければ怖かったし、怖かったから何度も景気よく連呼して信じる力を増した。
それはそれは傲慢な言葉で。
思うに、言葉を発して心をコントロールするのは、心理学よりも宗教に近い行為だ。
荒ぶってはいるが、れっきとした「祈り」だからだ。
でも、祈りであれば畏敬の念を持つべきだった。
私の身勝手な「勝てる 絶対に勝てる 勝つに決まってる 負ける気がしねぇ」という祈りなど、何億何十億の祈りを聞くのに忙しい神様の前では無意味だ。そもそも祝詞は完成していて、そこには感謝も賛美も乞い願う真摯な気持ちすらない。傲慢すぎる祈りには価値などない。
まさかの敗退。
決勝まで行って当然だと思うから「まさか」という言葉が出るけれど、まずその場所に立てたことへの感謝がなさすぎる。
弓道なんてメンタルなスボーツ、心をどれだけ整えられるかが勝負!なのに、最も身近で結果を気にしている親が射たのでは、選手だって迷惑だったはずだ。
ああなんたる間違い!!
「ここで弓を引かせていただくだけで、十分幸せだもの」
と毅然と言い放った、同じ弓道部のママの、なんと崇高なこと!
私の周りには実に多くの師がいる。教えられることばかりだ。そういう光を見たことが、今回の私の大きな収穫なのかもしれない。
東京開催の国体だから、どの競技も、チーム東京のプレッシャーは半端ないだろう。
ちゃんとメダルに届く実力に磨き上げているに違いない。
でも、私は結果を望まないことにする。どの県代表だって、同様に磨きこんで来ているのだろうし、後は運が作用するとしたら、こればっかりはどうしようもない。時の潮目には逆らえない。もう、そのぐらい死に物狂いで練習しているだけで、価値がある。
運は、努力のおまけ。
結果はどうあれ、納得の行く射を。今は謙虚に、それだけを祈り続けたいと思う。