原発再稼働。
幾つもの法律が、一見場当たり的に可決されていく。
発言したいことは山のようにある。
あるけれど、私は主張できない。
自分の意見の裏側にある意見も想定でき、そこにはやはり真実があると思うから。
つまり、何が正論で、自分はどこに立ち、どうしたいのか、その行方が定まらないのだ。
憤りはある。
けれど、
優柔不断。
権利擁護の立場をとるべきだと学んでいる学生としては、簡単に踏みにじられていく生活や、現場を混乱させる安易なシステムの変更について、声を上げるべきなのかもしれない。
教育については現役の親世代という立場でもある。
不安定な根拠の危ない不安だ狂騒を見ていると、私は私で、ちゃんと発言しなくちゃと思う。
私は主権者だから。
誰もが主権者として、今を語る権利がある。
加えて、私はこの国の未来を輝かしいものとして、次世代に渡す義務があると思っている。
微力でも、しっかり考えて言葉にして、行動して行かなければならないと鼓舞する気持ちはある。
あるのだが、論争を避けたい気持ちのほうが強くて、動けなくなる。
視野が広くなったことは祝いでいいと思うが、そこまでの強い思いがなくなったということでもある。
憤怒できなくなったら老化現象だと常々思ってきたが、本当にそういう事態を自分の中に迎えるとは思っていなかった。
誰かに舵を任せて物見遊山でいるのなら、大きな声は要らない。
多分私は丸くなって、この国の行く先をただ見ているしかないのだと思う。
それがどんなにめちゃくちゃな為政でも、私は発言も行動もしないのだから黙って従うだけだ。
目の前の生活でいっぱいいっぱいなのだ。
野菜は高騰し、伝統行事を大切にしたくとも土用のうなぎは高すぎる。「払え」と言われるままに多額の税金を支払うと、学資として貯めていた貯金がなくなった。
第2号被保険者の介護保険金、もう自分が年老いたら自ら歯を抜いて姥捨て山に入るから、抜けさせてくれないかなとすら思う。
実際に、活用するしかない状況に追い込まれればありがたく活用するのだろうが、この保険はとてもきつい出費だ。個人の生命保険は解約して、お国の保険を支払っている。いざという時、民間以上に国家が頼りになってくれないと、困る。
少子化が深刻なのだから年寄りになった時にかかる私の費用を、子どもたちの未来の為に使ってくれとも思う。
負担は増えていく。
まずいよな、と思う。
思うけど、システムを見直すための勉強も働きもせずに、私は「今」をやっとしのぐのに精一杯だ。
私の子どもたちは、今、自己実現のために頑張っている。
それを見守っているのは、気持ちのいい仕事だし、とてもありがたいことだと思う。
思いながら、仮にシングルマザーであったら、仮に主たる稼ぎ手が失業状態であったら、子どもたちのがんばりも違う方向に向かわなければならないのだろうなあと考えることがある。
日本という豊かな国に生まれていなかったら、彼らの時間は生活のために費やされることになる。この国の平和と反映が、今の彼らの喜びと直結しているのだなあと思うと、ただ的中に拍手し、「ナイスシュート!」と喜んでいけばいいわけではないとしみじみ思う。
誰かがどこかで頑張ってくれているから、こうしていられることに、どうやって感謝を示したらいいのだろう。
この安定は、いつまで保たれるのだろう。
主権在民だと勢い良く自らの立ち位置を決めてかかる覚悟なら、せめて主張の方向を定めるために学ばなければならないことがたくさんある。
なのに、今や、その勇気と元気と時間がない。
せめて選挙に行くぐらいで・・・しかし、マニフェストの違約も、トンチンカンな攻撃も、派手で高級なスーツ姿も、突然の寝返りも、政党が互いにあら捜しをしているようにしか見えない国会中継を私は30分、我慢して聞いていられない。ネットで情報を集め、テレビ報道には敏感になっていても、次の選挙ではどう投票すべきなのかすらわからない。
覚悟がないまま、ただぼんやりと日々が過ぎていく。
ささやかな憤りを、「その他の雑酒」で飲み込んで。それが庶民で、おかみのやるこたぁわからねぇや。って、いいのか、それで。
ブログでも、子どもの背が伸びたの、毛が抜けたの、そんな話ばかりを繰り返して。
いいのか、納得できるのか。