という言葉をよくよく耳にするんだけど、そんなの生きてたら無理だよなとしみじみ思う。
迷惑を意識できて、よーし迷惑かけてやろうじゃん。なんて思って行動する奴は稀で、たいていの迷惑は仕方なくかけるか、無意識でかかるもの。
どっちにしても、不可抗力なんだから仕方ない。
特に私のように野生のままおとなになってしまったタイプは、迷惑をかけないように生きようとしたら明日死ぬしかないぐらい、追い詰められてしまうわ。
今だって、まだ添え木的ギプスを取ると痛くて痛くて、家族には迷惑かけっぱなしである。
リアルに「ご迷惑をかけるような生き方」なのである。文字通り、ハンディキャッパーだからね。
相方の家事能力なんか、ますます磨きがかかっちゃっている。
こりゃもうしょうがない。
だから私はウェルカム迷惑を貫こうと思っている。
迷惑かけます、ごめんなさい。
そのかわり、喜んであなたの迷惑、許します、引き受けます。お互い様だしね。というスタンスだ。
人様の迷惑を喜んで引き受けられるような生き方。
聖人君子じゃないんで、迷惑を迷惑だなと思いっきり顔に出すことも多々あるとは思うんだけど、迷惑なんてかけられるうちが華なんだからと思えたら、結構幸せな気がするのよな。
私の友人に、ものすごーくチャリティ精神にあふれている人がいる。
PTAで知り合ったんだけどさ。
お花見の時には自ら一番いい場所に1時間も2時間も前から座って場所取りしてくれて、素敵な仲間に声をかけてくれて、美味しいシチューと手製のパンを振る舞ってくれるような方。
それでいて、多分誰よりもハードに仕事をしている高額納税者である。
多分、私を含めてたくさんの友人は彼女に甘えて、彼女にもたれかかって、これまた随分彼女にはご迷惑かけまくりだと思うんだけど、彼女は笑っていつも許してくれる。
嫌なことはイヤとはっきり断ってくれるのでとても付き合いやすいが、キャパが並大抵の人とは桁違いに大きいので、彼女はいつもたいてい、断ることなく笑顔でいろいろな問題を包括してくれる。
迷惑をかけないように気をつかう生き方なら、彼女のような人とは付き合えない。
だって、何をどう頑張ったところで、彼女は常に受けるより与えるものが大きい人だからだ。
どんな迷惑もどんとこーい! であり、そんなんだから人脈がとてつもなくて、人という財産を使ってあらゆることを解決してしまえる人なのだ。
彼女を見ていると、教えられることが多い。
迷惑、かけてごめんなさい。
じゃなく、いつか彼女からかけられる迷惑を楽しみにするような気分になる。
よーし、迷惑の借りひとつだ、が累積しているような気分っていうかね。
きっと彼女は私に迷惑をかけたりはしないんだろうが、いつでも迷惑をかけられたい、それだけ「迷惑の借り」が、彼女にはたくさんあるのよね的な感覚に襲われるのだ。
そんな人になりたいのよ、私も。
あー、ゆう子さんからかけられる迷惑なら喜んで背負うわよ、と言われるほどの人に、いつかなりたい。
だから、今はまだ修行中だけど、人様の迷惑は率先してかぶるよ?。という気分なのね。
右手の痛み止めのせいで、今年の花見はノンアルコールだったけれど、彼女が誘ってくれなかったら花見気分じゃなかった。
ハンディーキャッパーの私に、PTAの友人たちは優しかった。ごはんとってくれたり、仕事免除してくれたり、おみやげくれたりね。
花見だけでなく、PTAの人材ってすごいんだなって、最近ホントに痛感する。
あくまでも経験則だけど、
「あの子が迷惑です!」
みたいに教職員や教育委員会にモンペばりに摘発する人って、PTAに友達がいない人ってケースが多いように思う。
PTA仲間は現場の迷惑をうまーく包み込みながら、迷惑のかけあいっこをちゃんと相手にうまく伝えて、集団がもつとんでもないパワーで問題を解決していく。そんなパターンをいくつも見てきた。
たまたまうちの学校が、そういう人達揃いだったのかもしれない。
小さな学校だから、今回は私が。次回はあなたが。みたいな感じで、大勢が役員だの委員会の仕事に携わるシステムで、子どもたちの応援団を形成している。先輩たちの知恵や工夫が、ちゃんと少しづつ時代にマッチする形に変わりながら息づいている。
完全に自分大事な人もいなくはないけど、きっとそういう人は一生、グループダイナミズムとも言うべきPTAのおいしい部分や、修行して器を広げる見聞なく終わってしまう、モッタイナイ人のようにも思う。
そりゃ時々、ご面倒だな?と思わなくもないが、得たものの大きさを考えると、やはり趣味・PTAってアリだと思う。
そして、子どもなんて未完成なものは特に迷惑のかけあいで、それをサポートするんだから、1000本ノックを待つような気分でバッチコーイ!でありたいと思う。