フェイスブックはわからない

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フェイスブックは全くわからないままです。
個人情報保護法があるのに、こんなら露出していいのですか皆さん、と思ったりもするけれど、
そもそも個人情報保護法がどういう経緯で作られているかを考えれば、別段この程度は問題ないだろうとも思ったりします。
オモテウラのない人間になろう。
っていうか、もともとオモテウラはそんなにないので、ついうっかり言い過ぎたり書きすぎたりして、嫌われたり笑われたり、恥の多い人生を送っています。
そもそも、ダンナと結婚するときにネタにされることは覚悟の上。
そのネタは基本フィクションだと構えていますし、仮にそこに彼の視点からのノンフィクションが含まれていようとも、実害がない限り、表現者の表現をとやかくいう気は全くないわけで。
だからそこはいいんだけどさ、いよいよもって、子どもたちのプライバシーの問題にぶち当たったりしています。
小僧が過去にどういう生きづらさを抱えていたか。
それは、みんなでシェアすることで、私自身もあるいは当事者である同じ状態の方にとっても、少しだけ、前向きな元気の種になっていたように思います。
けれど、今や小僧は特に生きにくさを感じないほどに社会に適応していて、そうなってくるとソレをことさら取り上げて行くのはどうなんだろうかなあとも考えます。
なんか、代理ミュンヒハウゼン的になっちゃうでしょ?
娘の成果は娘のものだし、小僧のプライズは小僧のもの。だから、ことさら結果を書いたりはしませんでした。
私がここで公開すれば、なんだかそれは私の手柄みたいになっちゃう気がしたから。
私が偏頭痛に苦しみ、登校拒否を克服するまでにあった数々の葛藤を、全くとんちんかんな克服法にして母ヨシコが友人たちに得意気に語るのを聞いて、とても嫌だったことがあるから。
でも、良きにつけ悪しきにつけ、見守ってくださった読者の方はすでに親族みたいなもので、困ったなあってことばかりお伝えするのもバランスを欠くし、一体どこまでお伝えすべきなのかなあと迷いに迷うわけです。
私は隠し事が苦手です。
間抜けなので、ついうっかり筒抜けにしてしまうことがある以上、隠す前提になどないほうが楽。
でもソーシャルワーカーの職務上の守秘義務はこの範囲まで、などと大学で学ぶたびに、子どもたちの所属を明確にするのはマズイだろうなあとか、プライバシーの線引きに頭を抱えるわけです。
私は自分の発言に責任を持ちたくて、ペンネームそのままでずっとブログを書いてきました。ほんの少しのフィクションを交えて、楽しい毎日を記録しておくためです。
ところが、時代はフェイスブックだよ・・・。
これをたどれば、全部丸裸になってしまう気がします。つまり、全部ドキュメンタリーというか。
私の本名はもちろん、ちょっとアブノーマルな趣味から、子どもたちの所属、親族の存在まで、子どもたちや係累の意思とは関係なく、わかってしまう。
難しいなあと思います。覚悟が必要です。隠すつもりはないけど、考えてしまうわ。

いや、誰も実は気にしちゃいない・・・というのが正解な気もするんですけども。