という回文を枕元に忍ばせて眠ると、いい初夢が見られるという江戸時代のおまじないを、杉浦日向子贔屓の私は長いこと実践していて、そういえばここ数年、しばらくやっていないことに気づいた。
もう、夢も見なくなって久しい。
昔は、飛ぶ夢をしょっちゅう見ていた。
ものすごく好きな夢の一つで、目覚めてもしばらくは幸せな気分だった。
自分の中には確固たる浮遊意識があり、wiiで子どもに勝てる競技など何一つない私でも、パタパタなんとかという飛ぶ競技だけは最初から敵なし状態だった。
だって、飛んだことあるから。ホント、飛べるから、私は。という、子ども理論なんだけど。
いつから、飛べなくなったんだろう。
体重が70キロを越えてから?
子どもを産んでから?
いや、「大人は飛ぶ夢を見ない」と聞いてから。
私は「大人たれ」という、自分のくだらない縛りで、自分の自由だった夢を縛ってしまったんだと思う。
先日、高校時代からの親友に会った。
もう30年来の友人なのだが、初めて互いの係累の話になった。
驚いたのは、全員の祖母が、お寺で育った、お寺の娘だったことだ。
意外な共通点だった。
私の祖母は、お寺に跡継ぎがいないために、生まれてすぐに貰われてきた親戚筋の娘だったようだが、寺で育っている。
若き祖父が、僧侶の大学を出て、すぐに入り婿になった。
祖母が父たちを産んで早逝しなければ、その祖父が赤狩りにあって獄中死しなければ、あるいはその寺に奇跡のような高齢出産で直系の息子が生まれなければ。
歴史に「もし」はないけれど、せめて父がまるで戦災孤児のように父方の親族をたらい回しにあうような育てられ方をしていなければ、父は宗教ともっと仲良くしていたかもしれない。巡り巡って、私が耶蘇教に帰依することもなかったように思う。
つまりは結果オーライなわけだが(これが多分、私の生き方の信条だな)、仲良しの三人の偶然、そこから考える父の生き方の運命のようなものに思いを馳せると、これを生前の父と語り合えなかったことを残念に思った。
父からは、寺に対する恨み言、親戚に対する憎悪しか、引き出せなかった。父は、大きな宿題を残したまま、亡くなってしまったのだなあと思う。
一度だけ、父にこの回文を送ったことがある。半紙に筆ペンで走り書きした、年賀状だった。
なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
父が枕に忍ばせたかどうかは知らない。
私は父と不仲だった。葬式でも、泣けなかったほどに、その根は深い。父には手紙をたくさん書いたが、それは父を慮るものではなく、どれも恨み言であったように思う。
その中で、この回文だけが、多分恨み言とは無縁の書であった。枕に忍ばせるといいと書いたのだから、本当にいい初夢を祈っていたのかもしれない。
そんなことをふっと思い出す。
私もまた、まだまだたくさんの宿題を現世に抱えているのだと思う。
まわりまわって、巡り巡って、不思議な縁というものがある。
自分では気づかないところに、発見がある。
「こういうもの」と決めてしまったら、おそらく見えなくなってしまう。飛べなくなってしまった夢を取り戻せるかどうかは分からないが、心を柔軟にしていると、例えば三人の祖母がお寺の子だった偶然のような、そこから派生する様々な課題の「きっかけ」はちゃんと与えられているみたいだ。
大人でありたいと思うのではなく、大人になりたいと想い続けられたらいいと思う。
今年もお世話になりました。
来年もまた、よろしくお願い申しあげます。