私が本当に悲しくて泣いている時、私の友達はただ黙ってそばにいてくれた。
ただそこにいてくれる、ということ。
それだけで、いい。
私は、たくさんの優れた友達から、とんでもないものをいただいたと思っている。
あなたが悲しいとき、ワタシは黙ってあなたのそばにいたい。
何もできないけど、ただ、そばにいたいと思う。
亡くした子どもの話は切ない。
亡くしたことを隠す気持ちはないし、彼らの存在が誰かを救うなら私は喜んでする。
でも、私にとって彼らの死はやはり悲しい話なのだ。
いたずらに引っ張り出すことはできない、痛い痛い話なのだ。
「そんなに泣くな。死んだ人が浮かばれない」
と悲しみを咎めること。
「私にも同じような経験がある、似たような話を聞いたことがある」
と自分の話に引き寄せること。
「親より先に死ぬとは親不孝だ」
と死者を責めること・・・。
これは、子どもを亡くした親の自助グループの中で話し合われた、私たちが最も辛かった言葉の、中でも私が嫌だった言葉だ。
もう15年も前のことなのに、鮮明だな。
子どもを亡くす痛みを理解するような経験など、ないほうがいいに決まっている。
人によって、感じ方も様々だとも思う。
でも、痛まないせいか、こんなふうに安易な言葉を使う人のなんと多いことか。
定型化した文章に心はない。
そこに心の底からの嘆きや共感があれば、それは定型化した言葉じゃなく、あなたの言葉になるのに。
言葉は重い。
軽々しく使う人がたくさんいるけれども、実に重い。
私なら、そこに悲しむ友がいれば、黙って背中に手を当てていたいと思う。
抱きしめられるなら、抱きしめてあげたいと思う。
そして、私にはそんな友達がたくさんいてくれて、本当に良かったと思う。
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