父が倒れたかもしれない、という第一報は明け方未明に入りました。
娘が抜擢されて大会に出場する晴れの舞台、誤解を祈りながらお弁当を作って送り出し、万一に備えて準備をして、「やはり倒れていた」という電話を受けて、車に飛び乗りました。
最期には間に合いませんでした。
数年前に生死の境をさまようような大病をし、持病をもっていての73歳でしたので、順当な「お迎え」かなと思います。
明日、親族だけで荼毘に伏すのですが、子どもたちはほとんど会ったことすらない「おじいちゃん」でしたから、私はさんざん迷った挙句、自分たちのやるべきことを優先させることにしました。
「そういう人」でした。
初孫だった私の子どもの葬儀の時には、姿を見せず、危篤の頃から突然強引に入れた仕事に打ち込んでいました。職人気質で、情に厚く涙もろく、それでいて気が弱いのできっと初孫の死を受け入れるのがつらすぎたのでしょう、気持ちはきっと通じているのだからいいと、頑固に言い放つようなタイプの人でした。
気持ちは通じているから、いい。
生きてきたように、人は死んでいき、送ったように、送られるのだなあと思います。
きっと、幼少期、お寺の生まれだった父の母や、入り婿僧侶だった父の父の、大変に大げさな葬儀を見て、「特別な日は大嫌い」だと刷り込まれたのだと思います。
悲しみは、絢爛豪華な葬儀なんかでは決して決して晴れないことを、小学生の頃、その身に刻んだからでしょう。
「そうしなければ怒る」ような人の葬儀に、子どもたちのすべきことをキャンセルさせて出たら、きっとあの世から怒って出てきそうだなと、ダンボール一杯、きちんと整理されていた孫たちの写真や手紙を見ながら、ちょっと笑ってしまいました。
おそらく、このおびただしい量は、一通たりとも、捨てていない。大きな箱にめいっぱい、きっちりそろえて、孫たちの写真と手紙が入っていました。年代順が不同なのは、時々眺めていたからでしょう。
仏壇にも、お守り札にはさまれて、私の出した孫の写真入の手紙が、供えてありました。
私は、女子には珍しく勘当された身でしたので、18で家を出て以来、数えるほどしか父と会っていません。
勘当ですから、金銭的援助も受けていません。
それ以前に、愛されて育った記憶もありません。
子どもの頃には父が嫌いでした。
気持ちは通じないから。ちゃんと言葉にしないとね、おとうさん。
キライなはずの父に当てた、実に手の込んだ、カラフルな手紙の山。
一方的な。
不器用な、愛の乞い方です。
そして、こんなものを今さら……こんなに歳月がたってしまって、もう二度と話せないのに、ダンボールいっぱい、大事にしていたなんて愛情表現は、卑怯だからね、おとうさん。
実に一方的な。
不器用な、愛の返し方。
私たちは、どこかよく似ていたのかもしれません。
だから、明日は父の希望通りに、密葬で。
私も、自分の時には、望む形で送って欲しいから。
子どもたちは、おじいちゃんにお別れの手紙を書きました。
記憶にないおじいちゃんに向けて、天国でも応援してください、という、実に一方的な、でも、彼の愛を確信している手紙でした。
今度こそ、ちゃんと返してやってよ、おじいちゃん。
孫たちの望みどおり、天国で元気でいること!
じゃ、また会おうね。ずっとずーっと、先にね。
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