2010年02月06日

世の中のお父さんへ

相方は、息子のバスケには興味がないらしい。
娘の弓道にも、興味がないらしい。
興味がないのは、仕方ない。
男46歳が、素人のスポーツなど見ても面白かろうはずがない。当たり前だ。
でも、男46歳は、それ以前に父親46歳なのである。子育ても仕事のうちだ。
興味をもたれない子供の気持ちを、まず考えて欲しいのだ。

私は父親から興味をもたれない子どもだった。女だったからだ。
暑苦しいほどの愛情というのを知らない。
だから、男性とは、こちらが身を挺して愛情を確保しなければならないものだと、勘違いして育ってしまった。
それは哀しい、不幸なミステイクだ。
きちんと大人だった相方と新しく「家族」を作ることで、私はしっかりした大人に自分を育てなおしたが、巡り会いが悪ければ、今頃、詐欺やら殺人未遂やらで捕まっていた小太りの女だったかもしれない。
今なら、父には父なりの照れと、父なりの愛情があったこともわかる。だが、私の無軌道な時間を取り戻すことは出来ない。
「自分は愛されるに値する人間なんだ」という自覚さえがっちり植え込んでやれば、子育ての大半は完成だと、私は思っている。
そこんとこが未完成のままだと、子どもは大人になっても、愛情に飢えた子どもの部分を残してしまう。飢えた愛情を乞う彷徨の時間は、必ず自分を傷つける。
腹を満たしてやることは大事だが、それと同じぐらい大事なコト。
それは、
「お前が一番大切だよ」
という、愛情をたっぷりかけ流すことだ。たとえどんな事態になっても、地球の裏側で別の時間を過ごしていても、捉われの宇宙人になっても、無一文になっても、
子どもにとって、「お前が一番大事だ」という、その存在価値を与えられることは、唯一無二だ。
「お父さん、うざい」
と邪険に言われても言われても、その引力から自力で離れる、つまり自立できるときがくるまで、わかりやすい愛情をかけてかけて、かけまくってやって欲しいと思う。
きちんと自立した大人なら、「お父さん、うざい」と、今度は、笑っていえるようになるだろう。
そのときが、お疲れ様のときなんだと思う。

本当は、それは父親なんかでなくてもいいのかもしれない。
どんなときでも真っ先に自分を守りにきてくれる大人がいれば、子どもは安心して大人になれると思う。
どんな事態でも、結果のいかんに関わらず、応援して肯定してくれる大人の存在がそばにあればいいのだ。そこに、自分がなるべき大人の姿が見えてくる。
愛されていることに疑いがなければ、きちんとノーといえるようになるだろう。それは強い自己主張と言うことだ。
自己主張には責任が伴う。そうやって、きちんと自分の道を考えて自分で進んでいける、そんな大人になりやすいと思うのだ。

幸い、バスケ部の先生も、弓道部の先生も、指導者として申し分ないので、安心して預けているが、やはり大会には「お母さん、うざいから、もうこないで」と言われるまで、私は応援を続けようと思う。
できれば、相方にも、一緒に応援を続けて欲しいと思う。それは父親の重要な任務として。

いや、もしかすると、相方が子どもを慈愛の目で見ることが、私の最大の癒しにもなっているからこその主張かも知れない。
しかし、若気の至りだろうと、ほんの出来心だろうと、うっかり結婚という形で私を背負ってしまったからには、それも責任の一つなのだから、覚悟して欲しいと思う。


2010年02月06日 13:49