「おかあさん、ちょっといい?」
お風呂上りの小僧は、手元の紙を私に渡した。
サッカーチームの、セレクションの申込書だ。
しまっておいたものを、今日、自分で引っ張り出してきては、何度となく、ため息をつきながら見ていた。
「明日、締め切りだよね。……僕、やっぱり試したいんだけど」
今さら? 実質締め切りは明日だけれど、君の所属する少年団は、セレクションを受けることを認めていない。退団しなければならないし、退団すれば戻れないんだよ? そもそも退団の手続きは、もう、間に合わない。
セレクションの倍率を考えたら、正直、合格するのは難しい。
それは、先月からずっと話し合ってきたことだった。小僧も、倍率はわかっている。トライし、だめだったらチームを変えればいいと提案したが、小僧は別のチームに移る気がなかった。
だからセレクションは受けないという方向で結論は出て、団には来年度もよろしくとご挨拶を入れたのだ。
「それでも、どうしても、試したい。受かるように全力でがんばる。もしダメなら少年団に戻れないのはわかってる。でも、やっぱり試したい。締め切りは明日だったよね、受けたい」
君がトライしないと決めたのは、まだ力不足だと考えたからではなかったのか。
自分で、監督やコーチを説得できるのか。
少年団でやり残したことがあったのではないのか。それこそが、君のやりたいことだと言っていたのに? 小僧がセレクションを受けない理由を私に理路整然と話したときの理由を一つ一つ聞いていく。
「監督には、自分で言う。ごめんなさい、今まで育ててくれてありがとうございましたという。(少年団の)仲間は大好きだけど、(セレクションにくる)最強の人たちとゲームしてみたいし、最強のチームにも入りたい」
……そこが最強かどうかはさておいて。
朋友・リン君と、同じチームで、都大会に出るんじゃなかったのか。
都大会で、MVPを狙うんじゃなかったのか。
せっかく培った仲間はどうするのか。
……言いながら、なんでこんなことを聞くのかと自問自答する。私は卑怯だ。小僧からとった言質を、小僧に投げている。わずか9歳の子どもに。45歳と46歳の両親が、彼にとってよい進路はどこにあるのか、何日もかけて話し合って結論が出なかったほど難しい問題を、わずか9歳の小僧に。
責任の所在を確認している。やる気の有無を確かめている。私の無意識の希望に、小僧がただ反応しているのだとしたら、代償が大きすぎるからだ。
「それも夢だったけど……」
それでも小僧は怯まなかった。リン君との別れに関しては、さすがに人生の大半を共に過ごしているわけで、少し涙も見せたけれど、決意は揺らがなかった。所属チームがなくなってもいいとまでいう。
長い時間話して、いい加減な気持ちではないと思い、早寝していたおとうさんをたたき起こして、今度は家族会議である。
もしも、少年団が「セレクション、がんばって来い。もしダメだったら、戻って来い」という体質だったら、小僧と私たちは、こんなに悩まずにすんだと思うが、団には団の事情もあるし、それは規約なので仕方ない。
そんな事情だったからこそ、たくさん考えて、客観的に自分も見られたのかもしれない。迷って迷って迷って、最後の長いホイッスルが鳴る直前ギリギリで出した結論は、重い。そうやって出した答えなら、親は後始末をするだけだ。
明日、菓子折りを持って監督にご挨拶にいこう。
トライすればいいのに。トライしないなんて、ヘタレだわ〜と、自分がいかに軽く発言していたか、今夜の小僧との話し合いで、私は思い知る。数日前にあげた日記が恥ずかしい。何が失恋した気分だ? 何をとぼけたことを言っていたのだ。挑戦をするのは、私ではない。彼だった。
心から、小僧に申し訳ないと思った。
トライしたかったのかもしれないのに、しないと頑なにいいきる言葉を鵜呑みにしていた。いつだって自分よりうまい選手には、声をかけて友達になってくる子だった。うまくても少年団で決して威張らないのは、もっとうまくなりたいからだった。
彼は規約に阻まれて、全部失くす覚悟が出来なかったのだろう。
少年団は大好きな故郷だ、そこでプレイしたいのは当然である。
9歳で全部失くす覚悟なんか、できっこなくて当たり前だ。
それでも、うまい人たちとセレクションでゲームをしてみたい。そしてもちろん、選ばれたい。だめかもしれない……。ダメだったことを考えれば、動けない。でも……。
そこに、ロスタイムの表示。彼はやっと、勝負に出たのだ。
私は、なんて軽薄な親だったんだろう。
子どもが抱えている大きな大きな苦悩に、気づきもしなかった。
私はどうすればよかったのだろう。
いつだって、自分の感情が最初にきてしまう。
無難な選択が、突然厳しい選択に変わり、今度こそ、私はどうするべきなんだろう。
ともかくも、おとうさんに、必死の説得をして、「よろしくお願いします」と頭を下げた小僧を見ていて、私も覚悟を決めないとね。
がんばれ、小僧。初陣だ。
ダメだったときの骨は拾ってやる。
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