2009年12月15日

憤怒の力

監視されて、書きたいことが書けなくなっていた。
平和な毎日。ちょっと面白おかしかった話。またやらかしちゃった失敗談。
そんなぬるい話題ばかりが、私のブログのネタになっていった。
つまんないよな。

憤怒。
それは私のエネルギーだったのに、憤怒してもそれをそれと書くと、全然関係ないところで、誰かが自分の悪口を書かれたと泣く。著しい勘違いなのだが、誤読だろうがなんだろうが「傷ついた!」という大義名分は強い。
「傷ついた」といわれる私の方だって、弱者の武器のその涙で十分傷つくのだ、そのとんちんかんな訴えは人の心を切り裂くのだということを、被害者だと信じるその人は知らないのだろう。
言論は自由だから、どんな言葉も甘んじて受ける。何を言われようがかまわない。そんなことで揺らぐ友情でもない。私もこうして発言している。
誤読も、自由だ。大いに結構。
だが、その対応が成熟してくれたら、もっと結構なんだがな、と思う。
傷ついたの、傷つけたの、子どもじゃあるまいし、全くもってばかばかしいと思う。

だが、戦うことが面倒になってきてしまったのだ。
世界中にいる知己、何カ国もに遊び、日本においては北海道沖縄を除く全県を移動してきた見聞。それらを背景に書き綴っても、「ご近所探訪記」にされてしまうようなとほほな気分は、すごい徒労感につながる。あるいは遠く、電波か何かでつながっているのか、ある種の方たちからの、奇妙な絡まれ方にも、疲れてしまった。
憤怒と共に湧き上がる書きたい欲求を、ひとまずいじくりまわす癖をつけてしまったら、それが精神的なインポテンツにつながったような気もする。
そう考えると、加齢かもしれないなあ。もう書きたいことなど実は何もなくて、ただゆっくりと利かなくなっている今の私の左手のように、情念も消えていくのかもしれないなあ。

本当にそうなのか。
いや、そうではない。これだけは誓って言わなければならない。
私は、自分のキライな人については書かない。その信条の裏側にある理念は、きちんと書いておきたい。
困ったチャンについて書くときも、困ったながらも愛せない人については、書けないのだ。その人に対する憎悪ではなく、その人の言動に対する憤怒しか、書けない。私には、残念ながら、憎悪を文章で昇華させる技術はないからだ。
私は善人ではないから、憎悪する相手ももちろんいる。
むしろ、人を愛する想いが強い、その同じエネルギーでいっちゃうわけだから、憎悪も激しい。
憎悪する人について考えるだけでも、自分が地獄の業火で焼かれる気がするほどの強い思いがあるから、心の平安のために、憎悪する人のことは考えないようにしている。ましてや自分にとっては神聖な「作文書き」という趣味を汚すような事はできない。

ああ、まだ大丈夫な気がしてきた。
書きたいことは減ったけれど、書けない人が存在するということは、まだ愛する人へのエネルギーも強いということだ。と、変なトコで安心する。

きっと、ふっと漏れ聞く愚痴みたいな軽口は、ノリピーや押尾センセイがやっちまったね、という程度のものなのだろうけれど、そこに憎悪する人の名前などを見つけてしまうと、私は実に動揺する。ああ、その名前すら、できるだけ語らないようにしなければならない。私の醜い真っ黒な憎悪で、壁が決壊しないように。
なーにが不惑の四十だ。感情は湧く、沸きあがって、わくわくの四十路だ。なだめるのに一苦労じゃないか。
……でもそれが、「生きる」ということなのかもしれないと、ちょっとだけ思う。
「きらいでもいいんだよ、それもまた、エネルギーだ」
単に「あの人きらーい」って話から、エラソーに哲学語ってんじゃねーよ、と自分で突っ込みつつ。

人と人が交われば、軋轢は生まれる。
軋轢はしかし、工夫の元であり、知恵の活かしどころでもある。原子力発電のメカニズムはわからなくても、憤怒のマグマを平和利用する方法は自分で何とか構築できる。手始めに、憎悪を憤怒に換えて……。む、難しい。それが難しいんだけどな!

さて、この力玉をなんとしよう。


2009年12月15日 12:18