昨日、私は書道の先生だったのだが、でーっかい紙に生徒たち皆で大書するというグループワークをやってみた。
課題は「人」。いっぱい、いろいろな人が並んでいる。
勢いのいいヤツ、縮こまってるヤツ、顔がついてるヤツ、跳ねてるやつ、ひっくり返ってるヤツ、反り返ってるヤツ、うつむいてるヤツ、大きいやつ、小さいヤツ、太いヤツ、細いヤツ……。
いろんな人がいる。
そのどれも、案外かっこいい。
いっぺんに書かせずに順番に書いていったら、作品としてもえらく完成されたものになっちゃったんじゃないかしらと思いながら、いろいろな人がぐちゃぐちゃに並んだ、未完成な全紙(掛け軸とかのサイズね)の画仙紙を壁に貼った。
子どもの書く字は、いいなあ。
うまく書こうとか、思っていないところがいい。
筆の運びに迷いがない。
ただ白い紙に、黒い筆で、書く。ただ、書く。
こんな教え方をしていると私の所属する協会からは破門されそうなので、これはアートスクールという位置づけにしてもらっている。師範の名前は名乗らず、「ゆうこせんせい」である。
母ヨシコが師範として教えている書道塾では、幼児は硬筆しかしない。鉛筆を持ち、きれいなあいうえおが書ける子になっていく。
だが、私は文字の書けない子どもにも筆を持たせる。
アートだから、教えない。「うまく見せるなら、こう」という、基本技術の指導はする。でも、基本的には場だけ与えて、やりたいように「書く」ことを楽しむ。
手を真っ黒にしたら、手形をとっちゃえばいい。
ええ、すみません、めちゃくちゃです。
けれども、私はこんなに楽しそうに字を書く子どもたちを知らなかった。
彼らを見ていると、それだけで幸せになってしまう。
子どもの頃、泣きながら練習した苦い記憶を、彼らの笑顔がきれいさっぱり片付けてくれる。有難いことだなあ。
五歳児が、私に半紙に筆ペンで書いたつたない手紙をくれた。
いつも半紙を真っ黒に塗りつぶす四歳の子は、私のヘルパーになりたがり、お手伝い上手で助かっている。
最初は3分いすに座っていられなかった子が、とりあえず作品を作るまでになった。
前回、お尻をはたかねばならないほどの悪さをした子が、今回はニコニコととんでもなくいい子で、一人だけ7枚も書いた。
別の課題の時には、小一が、「ああ、春という文字は、三と人と日だ」と気づいて、それぞれを練習しだし、併せて書くときにはスペースに気をつけなければならないことに自ら気づいた。漢字は組み合わせだから、そのバランスの妙さえ理解してしまえば、字はどんどんきれいになる。
古名蹟(石碑などの字体)を使って面白い字を書こうという課題で、別の小一は、字の形を記号や模様に見立てて書けば、お手本どおりの模写ができることを発見した。
お手本をよーく見るということ。これは、正直、低学年にできる芸当ではない。
ある小4は、「基礎訓練の日」を境に、字には勢いがあることを自ら発見して、とんでもなく上手な字を書き始めた。もう一人に至っては、作品を作る前に手本を見て半紙にイメージするという、そうとう上級になってから気づくコツを、二回目でもう体得していた。
彼らの幼稚園は、先生方も保護者たちも、大変に優秀である。
当然のように、子どもたちも、とても優秀だと思う。
小学生はその幼稚園のOBOGだから、これまた普通の子ではないのかもしれない。
その部分に多分に助けられているとはいえ、幼児の書道の指導は、「書く」ことを楽しいと思い、うまくなりたいと思う心を育てることではないかと思う。
硬筆を繰り返し練習して上手に書かせるのも大事だが、めちゃくちゃでも楽しいという中にも、書道の種は植えられるような気がする。
私はおこがましくもアートスクールの先生を名乗っているけれど、、本当の先生は子どもたちなんですよ。
私も一緒に飛び跳ねている。
和服で行っても、最後には白足袋を脱いで、足の裏は墨だらけだったりする。
つい夢中になって中腰で指導し続けて、ぎっくり腰になりそうな気配も漂うほど、終わったときにはぐったりなのだが、一日たつとこれが、ヘタな栄養剤以上に効果的なので、やめられない。
地元での、別のコンセプトで指導する機会には、一応指南書どおりの指導をするから、それはそれでまた少し趣が違う。こっちでも、アバンギャルドな書道っていうのをやってみたいけど……需要はないだろうなあ。ははは。
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