走ってきた。
マラソン大会。
雨も降り出して、遅刻すれすれで、出かけからくじけそうになった。
会場で準備ストレッチをしながら、何でエントリーしちゃったかなあとかなり後悔モードになっていた。
走り出した瞬間、「あああやっぱやめればよかったああああ」と後悔は全開に。しかしここはひとつ、「親の威厳が威信が沽券が股間が、股間は関係ないか、吸って吸って吐いて吐いて、ヒッヒッフーで、威信威信威信」などとずーっと思いながら、まずはトラックを一周する。威信、威信、威信、混乱。威信、混乱、混乱、混乱。走りきれるのか、2キロも? コースは、公園に続いていく。
親子マラソンにエントリーしたかったのは、手をつないでゴールインしなければならないルールに、いたく惹かれたためだ。
子どもはいやおうなくすくすくと大きくなっていき、すでに娘と手をつなぐことも少なくなった。
何か一つのことを一緒にする時間も、なくなって久しい。
彼女には彼女の世界がすて゜に始まっていて、それはばら色の輝ける未来なのだ。私のように、枯れ尾花ではないのだ。
中学に行けば、彼女はもっと、自分の時間が大事になるだろう。私と手をつながることを嫌がるかもしれない。
だから今のうちに、小学生最後の年に、何か記憶に残ることを……と思っていた。ぜひとも娘と一緒に「何か」がしたかった。
公園のコースは、娘が少し前を走った。軽い足取りで駆けていく彼女の背中を見つめながら、ひたすら走り続けた。
この心臓が破れても、絶対についていく。どんなことがあっても、あなたを見失うことはないから、あなたがあなたのペースで走っていいからね、と、伝えておいた。
緑の公園を駆け抜けながら、よちよち歩きの小さかった娘を思い出していた。
私はいつだって娘と手をつないで歩いた。乳児検診で心臓に雑音があると言われた娘の心肺機能を鍛えるべく、小さな小さな歩幅に合わせて、井の頭公園を、本当に毎日、よく散歩した。
彼女は小さな頑張り屋さんだった。
泣いて抱っこをせがんでも決して抱いてくれない母親に、早くから諦めがあったのかもしれない。スパルタンな母なのである。娘は、ひとしきり泣けば、あとはケロッとして、数歩先で待っている母の元に、自分のその小さな足で進んでいくしかないのだ。
それは今も変わらない、彼女のキャラである。独立独歩な人。
笑って、泣いて、食べて、寝て、そして溢れるほどたっぷりな時間を、一緒にいろいろな所に出かけ、いろいろなものを見て過ごした。
ぷくぷくだった幼女は、いつの間にか、とてつもなくスレンダーで、私より長い足になった。
何をしていてもうれしそうだった無邪気な女の子は、時々ちょっとフキゲンな少女になっていた。
ああ、大きくなったね。
本当に大きくなったんだね。
私の親指をつかむのが精一杯だった小さな手は、いつの間にかしなやかな長い指を持ち、いっちょまえに、マニキュアなんぞをつけるようになっている。私がいなければどこにもいけなかった子が、どこでも一人で出かけていけるようになっていた。そして、私が守ってやらなければ壊れてしまいそうな小さな小さな存在だったくせに、今日は走りながら「おかあさん、大丈夫?」と時々後ろを見て私を気遣ったりもするのだ、生意気なヤツめ。
「ダメだ、おなか痛い」
と娘が言い出したとき、私は一瞬躊躇したけれど、「あと少し!」と、走ることをやめなかった。娘を追い越し、ついておいでと言えば、きっと彼女は私の背中を見て頑張れると信じた。その信頼は、生まれたときから長い時間をかけて培ってきたものだから、私の中で少しもぶれることがない。
「ペース任せるから」と、私。
「うん、頑張る!」と、娘。
やがて、娘が、肩を並べてきた。
「手をつなごう」
娘がそう言ったので、私は彼女の手をとり、硬く握った。
一緒に走ろう。最後まで走りきれるよ。一緒なら、絶対に大丈夫。
わずかな距離のマラソンは、気力で走る。
まだほんの少しだけ、私の方が体力も気力も勝る、だからおかんは、もう少しあなたを支えられそうだわ、威信が威信が。と思った瞬間、いやそれは違うなと気づいてしまった。
彼女がいなかったら私など、最初の100メートルで挫折していただろう。面倒がって、大会に出ようとすら、思わなかったはずだ。
彼女はこうやってずっと、その存在で私を精神的に支え続けてくれていたのだ。たくさん教えてくれたのだ。私がいたから彼女が頑張ったのではなく、彼女がいたから、私が頑張れたのだった。
彼女が、私を「おかあさん」にしてくれたんだなあと、そんなことを思いながら、二人、あうんの呼吸でラストスパートをかけた。
ゴール直前で、娘は私の手を二度、ぎゅっぎゅっと握った。それは、うんと子どもの頃、歩道の段差や、横断歩道で「「気をつけてね」の意味で、私が送っていたサインだ。
ゴールして、二人で抱き合って、私はとても幸せな気分だった。
2キロを、11分59秒。
大会は終わったけれど、もう少し、手を握っていよう。いつでも手を握れるようにしておこう。彼女がこの手を必要としなくなるまで。
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