まだ筋肉痛に悩まされている。
今朝も起き上がるときはまるで生まれたてのキリンの赤ちゃんのような、立ち上がり方で。
心も生まれたてならいいんだが、邪悪で黒いおなかの中を抱えている。
五日目でこれだということは、だ。
観光気分で、本気の農家に近づこうとしていた私はなんて浅はかなのか。
予めしっかり見切って、ゴールデンウィークには戦力外通告をくれた、義母の賢明さがすごい。
ありがとう、かあさん。母の日、昨日だったけど。
手伝うつもりでも、きっとほとんど役に立たず、そしてきっとどこか壊していたに違いないのだ。
今はまだ毎朝「キリンの赤ちゃん」だからいいようなものの、本物の洗礼のあとには、おそらく、腰が動かなくなり、運転しては帰れない、「はじめキリンの化石」のようになっていたと思うのだ。
やっぱり、何でもプロは違うよなあと、改めて思う。
ところで、お嬢さんの受験対策として、作文トレーニングをやっている。
唯一私がプロと名乗っていい場所が、文章書きだったので、これはもう、足腰が立たなくなるまで、いやペンだこが硬く硬くなるまで、徹底ご指導する覚悟なのだが、一向にペンだこができない。
たこは問題ではなかった。それはいいんだが、文章がうまくならない。
昔、私が師匠にご指導を賜ったときのことを思い出す。師匠がどうしてフキゲンだったのかも、今ならわかるわ。
一番の問題は、彼女はパソコンを使って文章を書くことが好きで、多分それが彼女の文章スタイルと、文章を書くことの、デフォルトである点だ。
漢字がいらない。
後でいくらでも付け足しや書き換えができる。
原稿用紙の使い方など知らなくても困らない。
思ったことがすぐに文字になる。汚い字も大丈夫。
引用も転載もラクラク。(こらこら!)
こんな魔法の機械を持っていたら、そりゃあ、手書きの作文が下手になるわ。
実際、スピーチ原稿は全部パソコンで打ち、読み直して再三リズムを変え、完全に暗記も終わったあたりでプリントアウトを父親に頼んでいた。学校での発表には、一応検閲があるのだ。
耳で聞く文化、話す文化としての書き物があるんだなと痛感する。
言葉をつむぐとき、彼女世代には、読ませることが前提にはないのだ。
メールはきわめて簡単な一文返し。
「お母さんの時代にはね、パソコンなどなかったのです」
と語り始めると、自分がやけに歴史の一端というか、古びた骨董になってしまったような気がして切なくなる。お母さんの時代には、携帯もなかったの? じゃあ、電気はあったの? 戦争は終わっていたの? ちょんまげの人はいたの? と、たたみかけられるのがなんだかめちゃくちゃな歴史観である。
せっかく文章のプロがいても、娘の作文力には貢献しないのよ、そのへんてこな発想と、大変便利な文明に阻まれて。
はじめてやった畑仕事の真似事が楽しかった。へろへろだったけど、楽しかった。
少しずつ鍛えれば、将来的には多少、お役に立てる足腰になるかもしれない。
お役に立てないまでも、きちんと自分の足腰度立っていられる老人にはなれるかも。
それと同じで、作文も、別にウィットとエスプリに富んだ、大作を目指せとはいわない。
ただ、書くことが苦痛にならず、自分の気持ちを少しでも、言葉で表現できる人になれたらいい。
筋肉痛があるうちは、筋肉が再生している証拠なのだとうれしく思う。
まだ私にも可能性が眠っている。
娘ちゃんの作文も、どこまで伸びるかわからないが、私よりはるかに可能性が眠っている。
互いに文明によって軟弱になり果てたが、まだまだきっとやれるのだ。
頑張ろう!娘ちゃん。……サボらず、まず、提出しよう。って、そのレベルからなのは、どうなのよ?
さあ、今日は歩くぞ〜。買い物には、徒歩だ。って、親子そろって、まずはそこから。
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