公園で福助が倒れたまま動かない。
どうした?
尋常でない汗をかいて、右足のふくらはぎを押さえている。
そばには1対1で遊んでいたタカト(仮名)が、ボールを持って立っている。
「足、引っかけられた」
「傷む?」
「動けない」
その場で抱きかかえて、家に走り、バケツに氷を張り何度もアイシングをする。
足が真っ赤になって痛みを感じなくなったら、湿布を貼る。
どうも、足に引っかかって倒れた後、勢いスパイクで踏まれてそれでちょっと痛めたらしい。
痛みが退いた後
「あれはぎりぎりファールじゃないよ、球にいってたし。そのあと踏まれたのはイエローかも知れないけど、タカトはわざとじゃないし、まあ、事故だから」
と福助が言う。同じチームのタカトの母が電話で様子を聞いてくる。
「ごめんねぇ。もうすぐ大会なのに、福助君故障させたら、私、チーム全員に土下座しなきゃいけないかと真っ暗だった。たいしたことなくてよかった! 」
「うんうん、こっちこそ大げさにしてゴメン。足、既往症があるからさ。ねぇ、電話の前で福助が、タカト、インサイドから抜くフェイントが上手いんだよーって絶賛してるんで、伝えてくれる?」
「ありがとう。でも本人はしょげてる。福助には勝てないって。今晩は落ち込みそう」
練習の絶対量と、ゲーム中の集中力が違うからなあ。と思ったが、とりあえずそれ以上は何も言わず、電話を切った。
小学生チームでは、あからさまに福助の小さな背中をどついて、コーチにこっぴどく叱られた高学年もいる。それに比べれば、福助、週三回のFCのチームメイトのミスなど簡単に許せてしまう。
その後の夕食。
「あースッキリした。ごちそうさま」
というのは、何かが間違っています。
何でしょう?
「サッパリした?」
いや、おなかがいっぱいになったわけだから、満……さあ、満、何?
「満ぱく。ぱくぱく食べました」
最近、福助の言語感覚はひときわ冴えてる。
「吸って、吐いて。……あ、全然関係なかったね」
と、食事中に言われた日にゃ、家族揃ってみそ汁を吹き出すわ。
この言語感覚がなくなるのは惜しいねぇ。
と笑いながら、P子にちょっと意地悪な質問をしてみた。
「もし、福助と学校が変わってしまったら、あなたは一緒に転校する?」
区またぎでとてつもなくいい学校がいるんだ、と話す。
普通学級在籍の判定が出なければ、私が今いる学校の校長に直談判するからねっ! と、息巻いたほどの弟想いがどう出たかというと。
「……やだ。冗談じゃない」
よかった。
P子が福助の犠牲になる必要はどこにもなく、彼女はきちんと自分の人生を生きているのだと知り、ほっとする。
「ええー、福ちゃん、別の学校にいくの? やだよぉ。Pさんと一緒の学校に行くよ」
「だよねー。手をつないで行くんだよねー」
とP子が言うと、
「Pさん、そんなにボクと手をつなぎたいか。……しょうがないなあ」
と、妙に照れる福助。このちぐはぐな会話には、妙な味わいがあって、変だけど大好きだ。
「行くとしても今の福祉センターみたいに時々行くだけ。くもんの習い事みたいなかんじで、もうひとつ学校に行こうかと思うんだけど」
「何するの?」
「ゲームとか、運動とか」
「……ゲームも、運動も、サッカーがあるからいいよ」
「うーん、でも、サッカーだけじゃダメだって、バルサTVでも言ってるよ」
「でも、小学校に行ったら勉強するから。サッカーだけじゃないよ。忙しいよ。習い事するならサッカーがいい」(超訳)
サッカーのゲーム展開と、それにまつわる話だと、セルジオ越後並に饒舌になる福助。時々変な発音になるのは、外国語を習得するように日本語を覚えているからだ。
もちろん、それ以外のことでこんなに自己主張することはないし、スラスラ言葉も出ない。
「一年生になったら、みんなと一緒に学校に行って、休み時間にサッカーをやるんだ。○○小学校に行くんだよ。他の学校じゃイヤだよ」
福祉センターの方には、子どもが通級を疑問に感じたらどうするのか聞いたことがある。
「そのときこそチャンスです。君は病気なんだよと教えてあげてください」
……っていったって、何か違和感があってこその通級なら、そこで病気といわれて納得も行くだろうが、全然元気なのに突然「盲腸を切るから入院〜」と言われたって、子どもとしたら、困るだろうとも思う。
自信をつけます。
コミュニケーション能力をつけます。
スムースに動けるように運動します。
集団参加します。
社会のルールに従います。
これが、抜き書きした情緒学級の紹介記事なのだが、とりあえず、今のところ、サッカーを介してすべてクリアしている福助は、ここで果たして、何を学ぶのだろうかと頭を抱える。
幼稚園の先生がおっしゃった、
「福助君がひっかかってくると、半分ぐらいの子がグレーゾーンになってしまう……」
というとまどいが、私の中にもある。
運動会のリハーサルを見た。
どんなに頑張っても徒競走では抜けない壁、駿足のこう君がいる。福助はどんなに頑張っても二位か三位なのだ。
「しょうがないよ、こう君には勝てない。こう君はクラスで一番早いんだよ。女子ではアミーゴとロミが早いんだ」
と、ちょっと自慢げに報告する。
「そっか。一番じゃなくてくやしくないの?」
リレーの選手では、チームが負けると選手同士で肩を抱き合って泣くと聞いている。その姿を見ていた今期役員さんが感極まってもらい泣きし、「子どもってすばらしい!! 」といきなりメールを送ってくれたぐらいだ。
「うーん、くやしいよ。でも、福助にはサッカーのシュートがあるからいいんだ」
シュート? シュート限定?
「そう、奪うドリブルならリンか強いし、早いドリブルならユウ。ディフェンスはケンがうまい、中盤でスライディングするのはヒロシが強い。一緒に上がっていってチャンスをつくるのがうまいのはサンタだ」
じゃあユウキは?
「ゴールキーパーの飛び出し」
じゃあユウヤは?
「……お砂場遊び、かなあ。お山作らせるとなかなかうまい」
サッカーは?
「ユウヤはチームに入ってるけど、サッカー好きじゃないんだよ、だからしょうがないよ」
よく見てるねぇ。じゃあウッキーは?
「全部自分で運んでシュートしたがる。だから同じチームの時には、一緒に上がっていかないで、ゴールよりかなり前でこぼれ球を待つ」
す、すげえですね。
こんなことが6歳にできるのか、ビックリ人間登場!(古っ)に出したいよ、かあさん。
「ゲームすればわかるよ。わかんないと勝てないから」
はにかんで笑う、福助の全部はサッカーで出来ている。
そして、サッカーのチームワークこそが、情緒的な問題を大きくナイスクリア!! してくれる状態である。
負けたときに混乱する子どもには、集団参加の意義と、負けたときの対応など社会のルールを簡単なゲームで教えるのはとても大事なことだ。
だが、味の素スタジアムや国立競技場でサッカーの試合でもびびらない福助にとって、ゲームとは常にとてつもなく刺激的なのに、トランプやジェンガなどのゲームが、果たして、どれほど役に立つだろうか。集団の意義も意味も、熟知してピッチに立つのに。
実際に、幼稚園の自由遊びに行うお遊びサッカーをフェンス越しに見ていると、彼はシュートを率先してた決めには行かない。ゴール前でアシストすることに喜びを見いだしている。そのゲームでは大差で負けても、落ち込みはなく、その日のヒーローの肩を叩いて賞賛する。それはヨーロッパリーグを見て学んだ、彼にとってのルールのひとつであるかのように。
しかし、ひとたび小学生のクラブチームに入れば、どん欲にゴールを狙う。ゴール前で味方の名前を呼び、パスをもらおうとする。そしてチャンスがあれば、ダイレクトでもループでも、スムースに打つ。バックへのケアも忘れず、多分いつも、誰よりも走っている。誰よりも集中して話を聞き、誰よりも集中して練習をしている。負けたら泣きながら、百本シュートを課して「次に勝つために」と未来予測を立てられるようになった。
大事なことはみんなサッカーが教えてくれた。
この子に本当に情緒学級が必要なのか。そこにいれないことは親の見栄やエゴなのか。
サッカーをとってしまえば、普通の子より劣るのだろう。だが、福助はそれを「しょうがない。それも個性だ」と受け止めている。
得意な子の得意な部分を活かすことは、すでに私以上によくわかっているのに、彼は一体に何をしに通級する?
考えるほど、迷い始めてしまった。
昔の育児サークルのママ友からメールをもらう。
「うちの子、判定、情緒通級だったの」
「あ、じゃあ同じだね。学校違うけど、これからも情報交換していこう」
メールを交換しながら、ほんの少し胸がざわつく。
彼女の息子が保育園でどんななのかはしらないが、夏に会ったときには、福助が誘っても聞こえないふりで、決して一緒に遊ぼうとはせず、ひとりで見えないチョウチョを追いかけてひらひら回っていた。
サッカーボールを蹴り続けるのと変わらない、といえば、変わらないのかもしれない。けれど、いつも福助はそこにいる人とボールを蹴りたがる。サッカーは一人では成立しないスポーツだからだ。
情緒学級では、福助の横にチョウチョ君のような子どもが座って、週に一度、福助は一緒に学ぶことになるのか。一生懸命ムシキングだのサッカーだの、話しかけてもずっと無視され続けて、泣きそうな顔で私に救いを求めた、福助のあの目が忘れられない。
1年目には様子を見て、必要だったら支援を受けたい。
と、申し出たくても、定員何名、に対して、希望者何名。
途中入級は難しいのだから入っておけ、って、なにやらSF商法のようじゃないか。
羽布団売ってるワケじゃないんだぞ。
支援を受けたいときに受けられなくて、何の特別支援か。
さらに、今、本人も周りも特に集団行動に問題を抱えない、安定した状態の子でも、学校に入ったら大変だから、目が届かないからと煽られ、今の安定は崩れる前提に立つほどの、どんな欠陥システムが区立小学校に待っているのか。
それは、普通科の教師の質を低く見積もりすぎていないか。
小学校教諭の弟は、自閉症の子どもの親と毎日連絡ノートをやりとりして、TEACCH法を学級運営に導入し、他の子ども達にも活かし、問題なく進級させたという。
教育委員会の判定に従わないことは勧めないと弟は言う。現場は確かに大変で、異端の者をあからさまに排斥する教諭も少なくはない。
だが、つまらないテレビドラマを凌駕するほどの感動的な出来事が、今、幼稚園では日々起こっていて、こういうのを味わう余裕がない、効率主義一辺倒の小学校生活を私は憂う。
ケガをさせられても、許せること。
許されることによって、また学ぶこと。
福助がたくさん許されてきたからこそ、福助に息づいている精神がある。
そういうことが通級でしか学べないのだとしたら、小学校の存在意義はただ勉強を教えるだけの塾以下に成り下がりはしないか。
それでもつらくなってしまった子どものオアシスとして存在するなら、それは素晴らしい存在意義である
だが、今、喉の渇きがない福助に、果たしてオアシスが本当に必要なのか。
来週、実際に学級の先生とお会いするので、私はその辺りを聞いてみようと思う。
2006年09月30日 00:21なるほどー。
「BJによろしく NICU編」で「子供は親にしか育てられない」という台詞は、実はこういう意味であったのか。
「障害」を先天的に抱えて生まれてきた赤ん坊を最後まで真剣に付き添って考え抜いて一緒に苦しんで育ててくれるのは、親しかいないんだ。
どれほどの専門家であっても、そういう肉親の気持ちを会得し斟酌できなければ「煩わしい他人事への責任回避の言葉」を一歩も出ないんだ。肉親の心へ言葉は届かないんだ。
「最後の最後まで責任を取るのは私だっていう事は判っている。もう覚悟はできている。そんな事も理解できていないあなたって、実はアスペルガー(まがい)じゃないの?」って、逆にその専門家に問い質したくなる。
そーゆー大人って多いもんなぁ。
そーゆー大人達は「私みたいに残酷な人間を相手に、その子は戦えるの? 私にとっても貴方にとっても隔離しておいた方が安全よ。」なんていう暗黙のメッセージを言外に伝えてるのかもしれない。こりゃあ、親は反発するよ。
サッカーはゲームなので「目的とルール」があり、ゲームを面白く行う上で「空間把握能力とゲーム展開(時系列)の予測能力、ゲーム展開の予想の為のパタン認識と記憶力、プレイの中での自分の活かし方(具体的にはポジショニング)の発見」などなどを必要とします。決して反射神経だけのスポーツではありません。
「言語的(抽象的)に」概念や状況や意味を会得し使いこなすのが苦手な子供にとっては「非言語的」で「空間把握や予測など、線型数学の身体的発現」みたいなサッカーという競技は、現実へ適応するのに、まさにうってつけなのかも。
でも、中田の言葉じゃないですが「人生はサッカーだけではない。」のも真実です。トランプ・ゲームの心理の読み合いとか、ジェンガで皆でダンスする歓び(大人にとっての社交ダンスですね)とか、また違う味わいもあったりするかもしれません。ほら、中田って、そんなところが、やや不足かなって感じません?
誰よりも福ちゃんを愛し慈しみ一蓮托生で生きていく覚悟を持っているのは、ゆう子さん、貴女だけです。思う存分、暴れ回って戦ってやって下さい。
子供は親の背中を見て育つんです。
福ちゃんが「おかあさんの背中に愛って見えるよ」って言うまで、なんのこれしき。
おいらも陰ながら微力で見守ってるぞー。
(以前も書きましたが、ほんとうにタメになりまする。)
いつも熟読、ありがとうございます。
ただ、私は御仲間であるアスペの子を、たとえ冗談にもネガティブな意味合いでは使えません。
アスペとは、私にとって「天才性」と同義語であって、
「人の心がわからない」という代名詞としては、使えないので、スルーするわけにもいかず、こうして指摘させて頂きました。
私が言いたかったのは、どの子どもでも負けるのはイヤで、負けたときに悔しくて泣いたりやめちゃったりしようとする。そのときにどうやって教えるかは、実はどの子に対しても必要な教育なんじゃないかということです。
特別に支援が必要な子どもだけにかかる負荷ではない。
それが苦手なのが自閉症なので、先を見越して、福助には、すでにカードゲームやすごろくや、ボードゲームで負けたときにはどうしたらいいのか、徹底的に、指導済みなんです。大人が50回も双六につきあえば、ちゃんと理解出来るんですよ。盤面の語句、全部覚えるほどがんばればね。
すべてサッカーが基盤になっています。それはレッドカード、それはオフサイドのようなもの、それはルール違反だけど審判が見ていなかった状態……など。
こんな風に、たいていのことは、外国の文化になじむのが早かったガイジンのように、すでに健常の世界になじんでいると自負していたので、迷ってしまうのです。
ガイジンのコミュを残しておいた方がいいから、と言われるのもある意味で正しい。
同時に、ガイジン同志いつもつるんでいては、日本をより深く味わうことは出来ないから、という考え方もある。という……。
難しいですね。
いえいえ、どういたしまして(笑)。
Posted by: ゆう子 : 2006年10月03日 00:04HOME |
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