姓名判断は気にしない。
相方はむしろ嫌っている。
子どもが生まれて、姑が見てくれると言ったときも、「だったらローマ字でつけてやる」と脅かしたぐらい、相方はその手のアレが苦手である。
今、ネットにはたくさんの無料姓名判断があって、ちょっとそんなので遊んでみた。
娘は偏屈、息子はギャンブラー、相方と全く同じと出た。
私だけが円満で幸せな運勢であるが、そんな三人を抱えての苦労については言及していないのであった。なのに、
「なるほどねぇ」
なんて思う。自分が「世話好きの姉御肌」と指摘され、性格も納得、運勢が大吉だっただけに、ちょっと嬉しい分、当たっている気がしてならない。
しかし、親心としては信じたくない気もする。心中複雑。多分、このサイトをもっと前に知っていたら、子ども達の命名は違っていたと思う。凶の名前を付けてしまった親はどうしたらいいのだろう。うろうろしちゃうわ。
こういうのに左右されたくないという相方の意見は大変に正しいと思い、忘れることにする。
しかし、ペンネームでも本名でも、私のところには「謙虚に」と再三書かれていた。これだけは、教訓にしようと思う。
あと、相方とは相性がよかったので、いい加減、安心しようと思う。
私は実に自惚れやだが、それは「私が愛する人」のハードルが著しく低いことを表しており、だからこそ私自身が私にものすごーく愛されている。私は私が大好きだ。
そんなだから、私には、自分以上に大好きな人、尊敬する人がいっぱいいる。そういう人に恵まれている自分はとても幸せで、いい影響をたっぷり受けるから、きっとまたまた私の素敵さには磨きがかかるのだと信じて、ますます自分が大好きになる。
しかし、それが万人に当てはまると考えるほどには客観性を失っていない。つまり、自惚れてはいても、第三者にも惚れられ続けるだろうとは思ってはいない。
「これほど謙虚に、謙虚に、といわれるってことは、謙虚が、今年のキーワードだな」
と、思う。書き初めは「休肝日」と書いたが、本来、謙虚と書くべきであったのだ。
ふむふむ。こういう使い方をするならまあ、姓名判断もアリかなと思う。便所に貼ってある教訓カレンダー程度には役に立つのである。「冷や酒とオヤジの小言は後できく」とか、どうでもいいフレーズを覚えてしまって何の役に立つのかと思ったりもするのだが、きっと何かの役には立つのだろう。人生に無駄なしである。
小僧と「はめ絵」をして遊んでみた。
三角は旗。ゴルフのグリーンに見立てた。丸はダーツ、四角はサッカーフィールド……ゲーム性が高い。長方形はアドベンチャーフィールドになり、筋肉番付だかサスケだかのような世界が広がっていた。いずれも、マッチ棒のような人が添えられている。なるほど、ギャンブラーな人生がかいま見えるようで怖い。
そういえば、娘はどんな形も強引に「人」にする。顔がついて、その人は笑っていたり泣いていたりにらんでいたり、いろいろな表情だ。偏屈、といえば、偏屈なまでに人にこだわっている。
これが大きくなってどんな人になるのだろう。どうも私は有り余るほどの強運らしいから、それを子ども達に分けてあげられるように頑張ろう。
そして、新年早々いろいろと腹の立つことも多かった母・ヨシコだが、いい名前を付けてくれてありがとう。と、思った。
2006年01月14日 14:12HOME |
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